No25363−04 | No25363−05 | ||
西出館 | 山中氏屋敷 | ||
(にしでやかた) | (やまなかしやしき) |
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西出館の土塁 | 山中氏屋敷の土塁 |
◆ 城郭の概要 | ◆ 城郭の概要 | |
別 名 : | 別 名 : | |
所在地 : 水口町宇田 | 所在地 : 水口町宇田 | |
築城年 : | 築城年 : | |
形 式 : 平城 | 形 式 : 平城 | |
遺 構 : 土塁 | 遺 構 : 土塁、堀 | |
訪城日 : 平成23年3月19日 | 訪城日 : 平成23年3月19日 |
◆ 歴 史 | |
・・・・西出館・・・・ 文献資料も伝承も残っておらず、城歴は全く不明である。昭和58年滋賀県中世城郭分布調査で初めて報告された。 ・・・・山中氏屋敷・・・・ 『山中文書』に城主の山中氏は、橘諸兄の後裔と伝え、建久5年(1194)に鎌倉幕府より鈴鹿山守護の沙汰と盗賊の鎮圧を命じられている。 南北朝時代に柏木御厨の所領・所職を獲得すると山中村(土山町)と柏木御厨の宇田を本拠とする二家に分かれた。宇田の山中氏屋敷は、柏木の山中氏が御厨の代官職となり構えた屋敷である。 室町時代も鈴鹿関警護役を安堵されており、戦国時代には伴、美濃部の各同名中と連合して「柏木三方中惣」を組織し、甲賀二十一家に数えられる有力な豪族であった。 『多聞院日記』永正4年(1507)6月26日条に管領細川澄元が青地城から山中新左衛門の城(山中氏屋敷)に寓居したことが記されている。 天正13年(1585)甲賀破儀により改易され、一時山中村へ退去したが、慶長5年(1600)には許されて宇田に戻り、1町四方の屋敷を構えた。宝暦13年(1763)屋敷地は減少され、弘化4年(1847)には水口藩に出仕し、水口城下へと移ったと伝えられている。 |
◆ 構造と感想 | |
・・・・西出館・・・・ 宇田集落の西端に位置し、地割などから一辺50mの単郭方形の城と考えられている。城の北西隅と推測される部分の土塁がわずかに残るのみである。 ・・・・山中氏屋敷・・・・ 宇田集落の縁辺部・中央北端に位置し、現在は東北と西北辺の土塁と堀がそれぞれ55m程残っており、それらから東西70m、南北60mの単郭方形の城館がであったと推測されている。 |
◆ 道 案 内 | ||
国道1号が新道と旧道に分岐する名坂交差点から国道1号を西に1.5km程走ると里北脇交差点に至る。そこを左折し県道121号線に入り、1.1km程南西に進み県道535号線との交差点に出て右折する。180m程西に行き、十字路で左折し、南に100m程入った左手50mにある竹林が山中氏屋敷跡である。また、西南西150mにある雑木林が西出館跡である。その間はわずか200m程である。 |
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西出館の遠景 | 山中氏屋敷の遠景 |