No25363−03 | 植城 | (うえじょう) |
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局屋敷東側の土塁内 | 現地の遺構図 |
◆ 城郭の概要 |
別 名 : つぼね屋敷 |
所在地 : 水口町 植字城ノ内、 宇田字奥斎 |
築城年 : |
形 式 : 平城 |
遺 構 : 土塁、空堀 |
訪城日 : 平成23年3月19日 |
◆ 歴 史 | ![]() 神社東側の土塁と空堀 |
植城の城主や来歴などは明らかではないが、『甲賀郡誌』に「大字植の南に一邸阯が存し、これを山中丹後守為俊の築造した邸址で、天文年間(1532〜55)に山中大和守生母おねねがここに住んでおり、里人が今も「つぼね屋敷」と称している。」とあり、柏木三方中惣を組織した山中氏に関わる城館であることを記している。 なお、植城のある植村は、古くは柏木荘酒人郷に属しており「上」の字が使われていた。慶長年間(1596〜1615)には、旧柏木御厨内の清水・大宝寺村の二村が、近世東海道の整備に伴い当地に移転してきたと伝えられている。 |
◆ 構造と感想 |
植城は、水口町植から宇田の一部にわたって位置し、ほぼ現在の植の集落が城域と重複しており、集落内に土塁や堀跡が散在している。城域は、東西約350m、南北約255mの長方形に土塁と空堀によって区画され、さらに内部を12ケ所の小画地に土塁と空堀によって区画された形態をしていたようで、単郭方形が基本の甲賀郡の城館の中では、複郭式と異例の構造をしている。「つぼね屋敷」は、その内の一区画である。 なお、平成16年の発掘調査で当初の堀が検出され、出土遺物からその堀は十五世紀頃に掘削され、十六世紀中頃まで機能していたと考えられている。 現在では、堀は埋め立てられ道路となり、広範に残っていた土塁も削られ、集落中央の吉川神社の周辺に僅かに残るに過ぎないが、基底部の巾3m、高さ3mを測り、空堀に至っては巾10mと巨大なものである。 |
◆ 道 案 内 |
国道1号が新道と旧道に分岐する名坂交差点から国道1号を西に1.5km程走ると里北脇交差点に至る。そこを左折し県道121号線に入り、1.1km程南西に進み県道535号線との交差点に出て右折する。280m程西に行き、T字路で右折し集落内に入る。80m先の右が吉山神社で、その向かいが「つぼね屋敷」である。 |
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