No25362−01 | No25362−02 | ||
西正福寺城 | 東正福寺城 | ||
(にししょうふくじじょう) | (ひがししょうふくじじょう) |
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西正福寺 北西側の横堀 | 東正福寺 土塁にされた古墳 |
◆ 城郭の概要 | ◆ 城郭の概要 | |
別 名 : | 別 名 : | |
所在地 : 甲西町正福寺(現:湖南市正福寺) | 所在地 : 甲西町正福寺(現:湖南市正福寺) | |
築城年 : 室町期 | 築城年 : 室町期 | |
形 式 : 平山城 | 形 式 : 平山城 | |
遺 構 : 土塁、横堀、池、土橋 | 遺 構 : 土塁、横堀、 | |
訪城日 : 平成25年4月13日 | 訪城日 : 平成25年4月13日 |
◆ 歴 史 |
・・・・西正福寺城・・・・の城歴等の詳細は不明で、清寿寺関連の遺跡の可能性もあるとされる。 |
◆ 構造と感想 |
・・・・西正福寺城・・・・は、正福寺の北西側、清寿寺跡の南東側一帯に所在している。 中心部に南北約 35m、東西約40mの方形区画があり、南東面、北東面、北西面に土塁を巡らしている。南東面の土塁は高さ6〜7mもあり圧巻である。また周囲には幅 7〜8mの横堀を配している。南西面には石塁状の仕切り土塁が残存し、その南西側は小さな副郭となり、その北西面には櫓台状の土塁が設けられ、西隅虎口に対し横矢が利く構造となっている。 方形区画の西隅と南隅および南西面に開口部が設けられている。南西面は副郭からの平入り虎口であるが、西隅と東隅は虎口を出て城道が折れる。さらに西隅からの城道は横堀の土橋を渡っている。 なお、副郭の南西側には、副郭より一段下がって平坦地が広がり、北西側も堀を隔てて2、3段の平坦地見られるが、城郭らしい構造は中心部のみのように思われる。 ・・・・東正福寺城・・・・は、正福寺の南東側に位置し、永厳寺跡や丁子古墳を含む一帯が城跡とされ、永厳寺跡への山道の左右に区画が配置されている。 一番北西側に位置している丁子古墳を土塁に利用した30m×30mほどの方形の区画は、周囲に高い分厚い土塁と横堀が築かれている。また、南東側の区画にも一部の土塁と堀が残っているが、孟宗竹が繁茂し、荒れている。 現在に残る遺構の構造は、天台系寺院跡に似ており、寺院と城郭の関係が注目される。 正福寺について 大乗山正福寺と称し、今から1250年前奈良時代、聖武天皇の勅願所として、良弁大僧正が開基された。 本尊胎蔵界大日如来は、金粛大菩薩一刀三礼の彫刻になる秘仏で、当時は七堂伽藍を完備して、僧坊18、公衆12人を属し、官符を賜わりし後、弘仁8年檀林皇后の綸命により、願安大師貞観10年伽藍を再建された。 聖武帝以来800有余年の間、永く寺門の隆盛を極めてきましたが、元亀年間織田信長の兵火に遭い一山諸堂僧坊ことごとく焼失しました。 しかし、本尊大日如来、薬師如来、十一面観世音菩薩、子安地蔵菩薩(いづれも国指定重要文化財)は火難をさけ、一草庵に安置して素朴な村人の信仰をあつめ其の後、明暦年間ときの住僧寂誉上人により浄土宗に転宗された。 正徳3年4月霊誉上人により堂宇を再興されて以来、念仏の道場として教化四方に遍く繁栄を見たものの、不幸に亦々宝暦6年3月16日の夜半、本堂、山門、鐘楼、悉く焼失しました。翌年には、無徳上人願主となり諸堂の復興に着手され、宝暦12年、本堂山門、鐘楼を最後としてようやく完成を見ることが出来た。 一時は住職もなく、兼務寺院となったこともあり、其の当時の模様を"寒沈人なく黄鳥しきりにさへづる法華経"と、荒廃した山寺の実状を詠じたものらしい。 |
◆ 道 案 内 | ||
・・・・西正福寺城・・・・は、国道1号の湖南市市役所前を西に通り過ぎた最初の交差点である平松交差点を右折する。北東方向に1.2km程行くと甲西大橋北詰交差点に至り、そこを左折し県道27号線に入る。県道27号を北西方向に960m程行った消防団ポンプ庫の手前で右手側に正福寺へ通じる道があり、右折する。100m程入った突き当たりが正福寺である。寺に向かて左手側へ小道を250m程入って行った右手側が城跡である。 ・・・・西正福寺城・・・・は、正福寺に向かて右手側へ小道を130m程入って行った右手側が城跡である。 |
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西正福寺 南東面の土塁 | 東正福寺 北西郭の横堀 | |
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西正福寺 東隅の池跡 | 東正福寺 永厳寺の参道跡か? |