No25342−01 兵主神社 (ひょうずじんじゃ)       

拝殿翼楼 庭園

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 野洲郡中主町大字五条
築城年 : 鎌倉期
形  式 : 平城
遺  構 : 庭園
訪城日 : 平成22年9月20日

歴   史
兵主大社は、八千矛神(大国主神・つわものぬし)を景行天皇の時代に高穂の宮居に近い穴太(大津市坂本穴太町元兵主)に祀られ、欽明天皇(531〜71)の御代に播磨別等琵琶湖上を渡り大神を奉じて、現在の宮域に遷座されたのである。兵主大明神縁起によると ゛播磨守資頼"の居館と記している。花山天皇の御代の寛和元年(985)に正一位を追授せられた。
また、拝殿の左奥にある庭園は、鎌倉時代の古様を伝える庭園として、昭和28年に名勝に指定されている。この庭園は、神社がこの地に移転してくる以前からあったと考えられており、元々は神社の庭としてではなく、鎌倉時代この地の豪族である播磨守資頼邸の庭園だったと云われている。
庭園は、大規模な池泉廻遊式庭園で池に中の島を浮かべて出島を作り、護岸の石組みや築山の三尊石組みなど、造園の妙が感じられる美しさがあり、深い趣がある。また、この池をめぐる小道は、一面苔がむした間を縫って作られており、京都の西芳寺(苔寺)を思わせるようなしっとりとした雰囲気がある。池汀の曲線の様子などに遺構がよく残っており、平安時代後期の作といわれている。<現地説明板より>

構造と感想
庭園も社殿等も凝った作りで興味のある方にはたまらない遺構が数多く残っている。
この庭は対岸の比良山地に産する守山石と呼ばれる庭石をふんだんに使った大規模な池泉回遊式庭園とされている。平成3年から発掘調査と保存修理が行われ見事な庭園が蘇っている。
発掘では、鎌倉時代の古様を伝える庭園の下層から現在の庭園の池とほぼ同じ形状で、洲浜で縁取られた平安時代後期の池が現れ、さらに池に水を注ぐ160mにも及ぶ遣り水の跡が、さらには琵琶湖に向かって出入りするための船着きの跡までもが見つかった。これまで起源と伝えられてきた鎌倉時代よりもさらに古い遺構の発見である。なお、現在の庭園は、作庭当時の南半分を留めるのみとされ、当初は神社敷地全体が庭園でなかたかと思われる。
ところで、発掘で平安時代後期まで作庭時期がさかのぼったが、まだ縁起による遷座年代の方が遥かに古いのは如何して ?

道 案 内
名神高速道竜王インターを下りて国道477号を北に4.2km程行った西横関交差点で左折し国道8号線に入る。国道8号を南西に3.3km程行って左手に西池のあるT字路を右折し、県道32号線に入る。北西に道なりに5.6km程進み兵主大社南交差点を直進し、80m先の中主中学校の所を右折する。北北東に310m程行くと神社前である。

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