No25207−12 | 大槻氏城 | (おおつきしじょう) |
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北東側の堀跡道路 | 西より城内を望む |
◆ 城郭の概要 |
別 名 : 大槻氏館 |
所在地 : 守山市木浜町 |
築城年 : 建久年間(1190〜98) |
形 式 : 平城 |
遺 構 : 堀跡 |
訪城日 : 平成25年9月8日 |
◆ 歴 史 |
大槻氏城は、在地土豪である大槻氏の居館である。 大槻氏は、野洲郡木浜村の住人で源頼朝の御家人として、頼朝上洛のみぎり、木浜村に濠を作り、城を仰付けられ居住したとされる。その築城は建久年間(1190〜98)と推定されている。建久6年(1195)には、頼朝が東大寺の再建供養会に数万の軍勢を率いて上洛した時、将軍に供奉している。 室町時代に入ると近江守護佐々木六角氏の家臣となり、六角高頼、義賢、義治の代には大槻源兵衛光秀が「関所奉行」に任じられ3千石の知行を得ている。 六角氏の没落後は、織田信長や豊臣秀吉に仕え、光秀が長兄・光永、次兄・光定とともに、天正元年(1573)朝倉義景攻略や天正11年(1583)賤ヶ岳合戦に従軍し、光秀は柳ヶ瀬にて討ち死にしたとされる。その後、光永・光定は関白となった豊臣秀次に仕官し、小田原攻めに従軍している。しかし、文禄4年(1595)秀次が秀吉に切腹させられて二兄弟は浪人となり木浜に戻った。 慶長19、20年(1614、5)に大坂の陣が起こり、二兄弟は藤堂高虎のもとに馳せ参じ、冬・夏の陣で戦功をたて、加増されて兄庄十郎が3千石、弟太郎助が7百石の知行を得、津城下に勤仕していた。後に兄庄十郎は木浜に戻って家督を継承したとされる。弟の記録はない。 |
◆ 構造と感想 |
大槻氏城跡には、現在も大槻氏のご子孫が住んでおられる。 屋敷の広さは、概ね三反半、幅二間の濠と土塁を廻らしていたと云われる。わずかに痕跡を留めていた堀跡の水路も現在では四囲を巡る道路になっているが、城館跡の雰囲気が感じられる。 なお、室町期には西方250m程のところに佐々木六角氏重臣の進藤氏の木浜城があり、同族でもないのにどうして同じ集落に在地土豪が二者もいたのか関心を持たずには居られないが、不明なところが多い。 |
◆ 道 案 内 |
名神高速栗東インターを下りて取付高架道路を国道8号方面に向かい1.4km程走ると国道8号に合流する。国道8号を北東方向に1.5km程で辻交差点に至り左折する。県道11号線(琵琶湖大橋取付道路)に入り北西方向に道なりに9.0km程の左手にローソンと歯科医院のある所で路地へ左折する。左折後約140m先で右折し田地の中を310m程西進した十字路で右折、右折後の150m先右手の道路に囲まれた一帯が城跡である。 |
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