No25207−04 欲賀城 (ほしかじょう)       

浄光寺の土塁跡 浄光寺

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 守山市欲賀町
築城年 :
形  式 : 館城
遺  構 : 土塁、堀
訪城日 : 平成25年9月8日

歴   史
欲賀城は、寺田氏の居館跡とされる。
寺田氏は、山城国久世郡寺田(現城陽市)から弘安5年(1282)に寺田藤内兵衛尉光範が近江国坂田郡箕浦郷に移住し、興福寺下知霊仙寺公文所主の任に就いた。その後、永和3年(1377)四代目寺田豊前守清信が江南野洲郡湯生庄欲賀郷へ移り住み、欲賀城主欲賀寺公文所の任に就いたとされる。清信の第三子の若狭大輔清通が出家して欲賀寺の守護に当たり、晩年、真宗に帰依し本願寺第六世巧如法主の時、本願寺の末寺となり念仏道場を開いた。それ以降、末孫が代々住職を務め、元和9年(1623)薬師仏を寺外に奉還し、天宝3年(1646)本願寺より阿弥陀仏木造を拝受して、湯出山浄光寺と改号して今日に至っている。
なお、文和3年(1353本間詮季が足利義詮から欲賀郷に領地を与えられており、本間氏が城館を構えていたとの記録も残り、複数の土豪の存在が推測される。

構造と感想
遺構は、浄光寺の南西隅に土塁の痕跡が、北東側背後には堀の痕跡が認められる他、集落中央付近にL字型の土塁を残すなど、約半町四方の居館跡が集落内に複数あったと想定される。また、浄光寺の北西側に寺田氏の出身地である山城国から寺田氏が勧請したと云われる水度神社があり、城館と関係があると考えられている。しかし、いつ頃に構築されたかは不明であるが、寺田氏が寺院や庄屋と云った様々な形で存続していったと思われている。

道 案 内
民家裏手の土塁
名神高速栗東インターを下りて取付高架道路を国道8号方面に向かい1.4km程走ると国道8号に合流する。国道8号に入り北東方向に520m程先の宅屋口バス停を越えた交差点(北東側にパチンコ店がある。)を左折する。県道145号線に入り北西方向に道なりに4.9km程行った大林町交差点で左折する。南西方向に310m程行って小津小学校前で左折し、40m先で右折する。南に300m行くと右手に浄光寺がある。
また、小津小学校前で右折し西方向に200m程行き左折し路地に入る。路地の南方向90m先の十字路を右折し、西方向40m奥に長屋門を構える民家がある。その左裏手に土塁が残る。

TOPへ 戻る