No25202-06 高取山城 (たかとりやまじょう)       

東郭の土塁と石積み 北東端の三重堀切

城郭の概要
西郭下方の石積み
別  名 : 男鬼城、高取城
所在地 : 彦根市男鬼町、犬上郡多賀町甲頭倉
築城年 : 戦国期
形  式 : 山城(標高688m)
遺  構 : 土塁・堀切・竪堀・石積み・櫓台
訪城日 : 平成21年4月11日 

歴   史
 比婆神社
「近江木間攫」に、「男鬼村 仏生寺村ノ巽ノ山奥ナリ。往古此所ニ川原豊後守在城ナリ。其城跡今存セリ。」これが高取山城のことを記したものと考えられている。また、「江州佐々木南北諸士帳」に「男鬼 住 河原豊後守」とある。
地元の男鬼の伝承に「男鬼畑から比婆神社へ通じる道のあたりに年貢道という山道がある。この年貢道は高取山に通じており、高取山には高取城という城があったと云われている。」と城の存在を伝えていたが、近年になってようやく遺構が発見された。
いずれにしても詳細な歴史は不明で、推測の域をでない。

構造と感想                          
この城の位置そして規模には驚かされる。ひと山越えた山奥で、要衝の地に当てはまる要件が見当たらない。どうしてこの山奥に城が造られたのか?
戦国期後半 浅井氏に圧迫された江北守護の京極氏は、坂田郡南部から犬上郡北部の山間部に城を築き、勢力の維持を図っていたとされ、この城も京極氏に関連した城郭でないかとされる。
城跡は、東西に走る二つの頂部を持つ尾根筋を利用して築かれ、三つの郭群からなっており、400m×300mの規模を持つ。
東端ピークにある東郭は、北東部に城内側裾が石積みになった土塁を構え、その下方が三重堀切で遮断されている。南東下方へは段郭を配し、北東側に縦土塁を設け、また食い違いの竪堀で斜面を遮断、その外側が櫓台になり、櫓台下方に二段の畝状竪堀群が構築されている。南西の中郭側へは帯郭と腰郭、鞍部は30m×5mの削平地で郭と堀切の役割を果たす。
中郭はピークの北東側に一段の腰郭、南東側に4段の小段郭、西側に一段の腰郭を設け、南東端に二重堀切を、西の鞍部に堀切を構築している。
西郭は東から西に3段の郭を連続させ西端に土塁を設け落差のある切岸としている。南下方に石塁を伴うトーチカ状の大変小規模な郭が設けられ、その下方は二重堀切である。
この城は、東と南に堀切や段郭等を配置しており、その方向への強い防御意識が働いている。
一山越える山奥で訪れる人もなく今も当時のシャープさを維持した明瞭な遺構に出会える城跡である。

           中郭の西側


道 案 内            
名神彦根ICを出た国道306号の原町交差点を西に750m程行った外町交差点で右折する。国道8号に入り2.5km程北に進み鳥居本町南交差点で右折する。東に道なりに2km程行った中山投棄場への案内板が出ているT字路を越えて180m程行くと仏生寺町で、バス停のあるY字路を左斜めに入っていく。その先は細く急な山道を所々にある比婆神社の案内板を頼りに同神社を目指し5.5km程を進む。比婆神社の鳥居をくぐって、更に山道を車で10分弱登ると比婆神社の駐車場に出る。
比婆神社の灯篭の左横から尾根の斜面を南に登って行くと10分弱で比婆山山頂(標高669m)で、木に標識が括り付けてある。さらに尾根を50m程進むと小さな「117」と刻まれた標柱がある分岐点に至る。ここで左(東方向)の尾根筋に入り岩山状の斜面をおり、さらに15分程尾根筋を下り、細尾根の土橋のようなところから少しづつ登りになり、最後に急斜面を登ると城跡の西端に至る。分岐から1.1km程の距離である。

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平成27年5月3日に再訪
西部の南に伸びる支尾根の石積み      西部と中部間の堀切
 
東部北東側の三重堀切       東部の南東に伸びる支尾根の土塁と土壇
 
東部の南東に伸びる支尾根の畝状空堀          中部と東部間の大堀切
 
西部と中部間の堀切と北側段郭下の竪堀       東部の頂部北東方向