No25201−22 | 衣川城 | (きぬがわじょう) |
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城址碑 | 土塁っぽい高まり |
◆ 城郭の概要 |
別 名 : |
所在地 : 大津市衣川二丁目 |
築城年 : 寿永3年(1184) |
形 式 : 丘城 |
遺 構 : |
訪城日 : 平成25年6月16日 |
◆ 歴 史 |
衣川城は、山内義重が寿永3年(1184)正月、粟津の合戦に勲功をたて、衣川の地を賜ったときに築造した城とされている。 その後の経緯は不詳のようであるが、11代山内駿河守宗綱は京極高清、浅井亮政らと共に永正8年(1511)京都の舟岡山で将軍足利義稙を要する細川入道高国や大内義興らと戦い勝利をおさめたとの伝えもあるが、通史では細川・大内の勝利とされている。一方、明治42年に建立された山内重興氏の墓碑銘には、宗綱の跡をついだ重清が舟岡山の合戦に従軍し、敗れて蟄居したと刻まれているようである。そして、大永6年(1526)8月3日夜、衣川城は細川入道高国の奇襲を受け、守将であった宗綱の弟宗重は3百の手勢を従え奮戦したが、ついに宗重は切腹し火中に身を投じたとされる。重清は叔父の遺志を受け密かに伊予国宇摩郡近井郷鏑崎村に逃れたが、遂に再興の志を果たし得ず当地に土着したと云われる。 衣川城址碑のたつ付近には、「城の口」や「開城(所)道」と呼ばれる所があり、昭和42年滋賀県教育委員会により城跡と伝えられる一帯の発掘調査が実施され、城跡の一部(溝跡、建物跡など)が確認され、明の青磁、白磁や硯、炊事用具の破片が出土している。 |
◆ 構造と感想 |
衣川台団地の北東端にある小公園が城跡である。公園は、傾斜地にあり敷地が二段になっている。城址碑は、公園の中央付近にある1mの段差の前に建てられている。 公園の下段北側に土塁っぽい雰囲気の土盛りがあるが、土塁ではなさそうである。公園の北側には段郭のような畑が残っているが、城跡なのか不知である。 ここの地形は、丘陵が琵琶湖に向かって下っており、住宅がなければ足元の西近江路や琵琶湖を一望のもとに見張らせ位置にある。 |
◆ 道 案 内 |
湖西道路仰木・雄琴ICを下りて県道315号線に入り、東に970m程進み国道161号の北雄琴交差点を左折する。国道161号を堅田方面に2.5km北進した仰木口交差点で左折し県道313号線に入る。県道313号線を西に410m程行った明神橋交差点で左折し、南に250m程行った衣川台団地の最初のT字路を右折する。団地内の坂道を40m程上ると右手に小公園があり城址碑がある。 |
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