田辺城  No24321−04 (たなべじょう)       

本丸北隅の櫓台と空堀 模擬城門

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : いなべ市北勢町田辺字北山304
築城年 : 天正14年(1586)
形  式 : 平山城
遺  構 : 土塁、空堀、虎口、土橋、櫓台、模擬城門、
訪城日 : 平成25年2月23日

歴   史
田辺城は、伊勢国司北畠家の一族である木造(こつくり)氏第八代左衛門佐長政により築かれた。
木造氏の始祖顕俊は、後醍醐天皇の側近で南朝方の有力武将であった北畠親房の三男顕能の二男である。木造氏は、木造城(旧久居市・現津市)を本拠にしていたが、永禄12年(1569)織田信長の伊勢侵攻の際に信長方につき、信雄に仕えるようになった。
信長亡き後、天正12年(1584)北畠(織田)信雄と羽柴秀吉が対立し、秀吉方の蒲生氏郷に攻められ、木造氏一族は戸木(へぎ)城(旧久居市・現津市))に集結して籠城戦を展開したが、同年11月15日信雄と秀吉が和睦したため、開城した。
天正14年(1586)7月木造氏は信雄より田切七郷をはじめ員弁郡内に1万274貫300余(約1万石)の領地を与えられて、田辺城を築き移り、約4年間居城した。その後、天正18年(1590)信雄が転封を拒んで失領すると、織田中納言秀信の家臣となり、1万5千石を領して岐阜へ移り、田辺城は廃城となった。関ケ原合戦では西軍に与し敗北、後年は福島正則に広島に招かれ仕え、慶長9年(1604)に没している。

構造と感想
いなべ市北勢町の北部の標高250mから240mの台地上に所在している。
城跡は、南部の主郭部とその北部に広がる家臣団屋敷と城井戸遺構からなり、城域の中央を南北に県道田辺千司久連新田線が縦貫している。
主郭部は、本丸と呼ばれる高い土塁と深い内堀で囲繞された方形の主郭と、主郭の南西から北西側に二之丸と呼ばれている郭が置かれている。二之丸の南西側も土塁と外堀が設けられている。主郭の虎口は、平入りで南東、南西、北西側の三ヵ所に開き、空堀に土橋が架けられ連絡している。二之丸の虎口は、土塁と外堀に横矢折れが入った所で北西向きに進入する平入り虎口が設けられている。その虎口前面に釣鐘状の台地張り出し部が広がるが、熟人荘建設に伴う発掘調査では城郭に係る遺構・遺物は見つかっていない。主郭部の西側にも釣鐘状の張り出した台地があり、ここには土塁で囲繞された長方形の城館跡が残っている。北東側は二重土塁で、外側の土塁は通路を隔て二之丸外堀が連続する形になっている。これらの外郭は、北隅の長土橋状で家臣団屋敷に通じる以外、切岸や斜面となっている。
家臣団屋敷と城井戸遺構の地区は、東西約120m、南北約400mに及び、西側やや南寄りに土塁囲みの一辺が約30mの方形城館が原形を留めるが、他は土塁や堀が部分的に散在し、全容は不明である。北端は台地の裾に田地と区画する横矢折れを伴った堀と土塁が一部残存している。そして城井戸から外部に通じる部分だけが開き、土橋が架かっている。
田辺城は、城郭部と家臣屋敷が同一平面上に設けられた形式で、文明頃から関東地方に流行した丘陵城郭と呼ばれる形態に属する城郭である。
主郭部の土塁や空堀、虎口遺構は、良好な残り具合であり、また、規模も大きく見応え十分である。そして、模擬城門を潜れば、標高差も殆どなく直ぐに外堀が姿を現し、気軽に訪城でき嬉しいい。

道 案 内
二之丸の南西側空堀(外堀)
名神高速道関ヶ原インターを下りて国道365号を南方向に入る。南進して県境近くの「かみいしづ緑の村公園」を通過し、2.4km程行ったT字路で左折する。県道107号線に入り、ダム湖の周辺を通り道なりに3.4km程行った藤原町鼎付近のT字路で左折する。県道606号線に入り、道なりに2.5km程行ったY字路で左手に進む。引き続き県道606号線を2.7km程走ると左手に多奈閉神社があり、神社の180m程前方で左折し、直ぐ突き当りとなり、そこで左折する。その先540m程行った美術館を過ぎて直ぐ左折、その奥がディケア施設「熟人荘」で、そこの駐車場北側が城跡である。模擬城門が登城口である。

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本丸北西側の虎口と土橋

水之手曲輪の土塁折れ