丸山城  No24206−06 (まるやまじょう)       

本丸と天守台 天守台の上部と城址碑

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 伊賀市(上野市)下神戸字坂田1507
築城年 : 天正6年(1578)
形  式 : 山城 
遺  構 : 土塁、堀切、土橋、空堀、天守台、櫓台、出丸、
訪城日 : 平成25年3月2日

歴   史
丸山城は、伊賀国を掌握する機会を伺っていた伊勢の国主北畠信雄(織田信長の次男)が天正6年(1578)3月家臣滝川三郎兵衛(雄利)に普請奉行を命じ築かせたことに始まる。
「伊乱記」の記録では、丸山築城を知った伊賀の土豪衆は大いに驚き、一致団結して神戸の天童山に立て籠もり、同年7月25日早朝 丸山城を攻撃し、雄利を伊勢に敗走させている。また、翌年 丸山城襲撃に激怒し伊賀に侵攻した信雄も撃退した(第一次伊賀天正の乱)が、天正9年(1581)信長軍4万の伊賀侵攻を受け、土豪衆は鎮圧された。乱の後は、丸山城に雄利が伊賀支配のために再び入城したが、天正12年(1584)伊勢松ヶ島城に移り、丸山城は廃城になった。

構造と感想
丸山城は、伊賀盆地の中央部の比自岐川が北側に大きく蛇行する南岸に聳える標高213mの独立丘陵に築かれている。
東端の頂部に本丸が置かれ、本丸から北と南、西の三方へT字状に支尾根が伸び、郭や櫓台、堀切や土橋などが残る伊賀地域における最大の中世城郭である。
本丸の西部には低土塁で囲まれた天守台があり、巨大な城址碑が建てられている。さらに南隅には南虎口を守備する櫓台が、東虎口の右脇には二重空堀が構えられ、切岸下には空堀や帯郭が廻り、さらにその東下方には段郭が付加され、堅固な造りとなっている。
北支尾根は堀切を隔て郭が数段続き、先端の郭には櫓台が構えられている。櫓台の北東下には桝形虎口(極楽口と呼ばれていた。)が構えられている。虎口から堀底道を下ると比自岐川に至る。西支尾根は、二本の堀切で三つのブロックに区分され、東ブロックは細長い郭で、その西部に櫓台が築かれ、堀切を越えようとする敵を監視している。中ブロックは2、3段の郭からなり、西ブロックは東側に二つの櫓台が構えられ、中ブロックから西ブロックに掛け南北斜面に腰郭が設けられている。南支尾根も細長い郭で、南端に櫓台が構えられ、東と西から登ってくる城道を睨んでいる。
登城路は歩きやすく、山上の郭群は、樹木の間伐がなされ、冬季にあっては下草も少なく、残存状態の良い遺構を十分楽しむことが出来る。
なお、谷や比自岐川を隔てた周囲の数か所の小丘陵には出丸が構えられているようである。

道 案 内
阪国道の上野東インターを降りて、国道422号の南方向に入る。国道422号を6.4km程南下した丸山交差点を直進する。そこから540m程先のT字路で左折し丸山集落に向け東進する。国道から300m程東進した右手の丸山集会所を過ぎたカーブミラーがあるT字路で左折し、50m程入り民家を通り過ぎて左手の北東方向の山道へ入り登城する。

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本丸の南虎口と櫓台        本丸東虎口脇の二重空堀

 
西尾の根堀切と土橋         西尾根の郭

 
南尾根の郭           北尾根の櫓台