竹本城  No23604−02 (たけもとじょう)       

秋葉神社を北方向に見る 城址碑

城郭の概要                  
別  名 : 新宮古城、新宮山古城
所在地 : 豊川市(旧御津町)御津町広石船山
築城年 :
形  式 : 平城
遺  構 : 土塁、堀
訪城日 : 平成30年11月24日

歴   史
新田義貞の臣に高田薩摩守義遠(新田十六騎党の一人に数えられた豪勇の武者で、建武3年(1336)正月の京都における合戦で討死した。)という豪傑がおり、その二男又次郎政季がここに居を構え、後に姓を竹本と改めた。その後、竹本氏は代を重ね戦国期に至り、天文の頃(1532〜55)には竹本四郎左衛門成久が当主で、牛久保城主牧野保成の配下にあった。
当時、牧野氏は今川氏に属し、東三河の旗頭的存在であった。永禄3年(1560)桶狭間の戦で今川義元が敗死した後、三河の諸氏が松平元康(のちの徳川家康)に寝返りつつあった中でも竹本成久は今川方に留まり続ける牧野氏に従った。
しかし、永禄6年(1563)ついに牧野氏も家康の軍門に降ることになり、竹本氏もこれに従った。この際、成久はじめ一族の多くは帰農・土着したが、成久の嫡男は『三河国宝飯郡広石村誌』に「竹本氏ノ長男ハ徳川家康公ニ奉仕シテ、関東ニ行キ」とあるように、家康の家臣になった。
天正年間(1573〜92)当地は長沢松平氏の領するところとなり、その家臣山田長門守晴政が竹本城主となったが、家康の関東移封に長沢松平氏も従い関東へ移り、これにより竹本城は廃城になった。
なお、長沢松平氏は家康六男の忠輝が相続し、最終的には越後高田75万石の大々名となり、山田氏も糸魚川城主となって2万石を領したが、元和2年(1616)忠輝が改易となり自害、山田長門守父子も殉死して果てた。

構造と感想
新宮山の南西に西から東に帯状に伸びる台地があり、その東端に竹本城が築かれていた。
往時は面積1千5百坪余り、周囲に堀をめぐらしていたが、現在は、東端部が僅かにその面影を残すだけで、ここには小堂が建てられて姫杉大神が祀られ、城址碑と説明板が設置されている。
城跡は県道により西と東に分断され、北側に高さ2、3mの崖が続き当時の面影を残している。台地の北から東側は田地が広がり、湿田であったと思われる。
なお、長沢松平氏は平城である竹本城の北西1kmに位置する茂松城を詰城とした。

道 案 内
東名高速道の豊川インタ−を下りて、国道151号の南方向に入り、6km程行った国道1号との宮下交差点で右折する。国道1号を北西方向に5.4km程行ったY字の国府町薮下交差点で左手方向に進み県道374号線に入る。290m程先の初めての十字路で左折し県道375号線に入る。160m程先で音羽川を渡り、更に330m程行くと五差路交差点に至る。そこで右折して県道372号線に入り510m程進むと右手に御津高校への案内板がある。その150m程先の道路の両側が城跡である。県道で分断されている。東側には秋葉神社があり、そこに大きな石碑と看板が建てられている。

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