岩略寺城  No23601−01 (がんりゃくじじょう)       

主郭の南方向 主郭北西隅の井戸郭

城郭の概要                  
別  名 : 長沢山城
所在地 : 豊川市(旧音羽町)長沢町御城山
築城年 : 文安年間
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀、堀切、虎口、井戸
訪城日 : 平成30年11月24日

歴   史
岩略寺城は、文安年間(1444〜49)に今川氏の一族関口刑部少輔満興によって築かれたとされる。
長禄2年(1458)には松平信光が長沢の城を攻略し、長男親則がこの城を与えられて長沢松平氏の祖となったと云われる。しかし、この長沢城が岩略寺城を指すのかはっきりしていない。
天文4年(1535)松平清康が守山城で横死すると、三河に今川氏の勢力が及ぶようになり、天文16年(1547)には牛久保城主の牧野田三郎が長沢への兵の配置を命ぜられ、天文20年(1551)には勾坂六兵衛門長能が長沢在城とその普請を命ぜられている。
しかし、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が討死にすると、今川氏の三河支配は急速に衰え、替わって岡崎城に自立した松平元康(のちの徳川家康)が台頭し、西三河を失った今川氏は境目にあたる東三河の長沢の地を固守するため、糟谷善兵衛、小原藤十郎らを長沢城代として配置していたが、永禄4年(1561)松平勢によって攻略された。攻略の際、山路が狭く険しいため軍勢を二手に分けて攻め落としたと伝えられている。永禄6年(1563)元康は深溝松平伊忠を長沢城に置いて東三河侵攻の拠点城郭とした。
その後、天正14年(1586)徳川家康は豊臣秀吉に備えるため、長沢城の普請を行なっている。秀吉はその後小田原攻めに際し、長沢城を使用している。しかし、これらの長沢城が岩略寺城を指すのかはっきりしていない。
天正18年(1590)徳川氏の関東移封に伴い廃城となった。

構造と感想
岩略寺城は、長沢集落の南の通称「城山」と呼ばれる標高169m、比高100mの山頂部に築かれ、北東に東海道を見下ろせ交通の要衝を押さえる立地である。
頂部に30m四方の主郭を置き、周囲に土塁を巡らし、その北西隅は張り出し広くなっている。ここには大きな井戸跡があり「井戸曲輪」の標柱が立つが、井戸の位置には適しておらず櫓台と思われる。東辺中央には、虎口が開き郭内で左に折れて入る。
主郭の周辺は、腰郭を設け囲繞している。主郭北辺の土塁を隔て二郭、井戸跡(櫓台)下方には、東辺に土塁を伴った三角形の腰郭が北西に突き出し、主郭北側斜面に強力な横矢を掛けている。この腰郭の切岸裾に三日月状空堀が巡っている。西下に井戸跡と一段低い南辺に土塁が付帯した腰郭が連なる。南下の西半分は南郭で、南郭から東と東下に続いた帯状の腰郭が巡る。西下の腰郭の裾には、城道を兼ねた空堀が巡る。帯状の腰郭には、北端に井戸があり、主郭の虎口や二郭西下の東郭に通じている。南郭の下方は堀切で遮断していたようだが、林道と駐車場で破壊されている。
主郭の北西、東郭の南東、北東、北に尾根が伸びている。
南東尾根には東郭下に二段の段郭と堀切が設けられている。北東尾根には、中腹に馬蹄形の土塁が付帯する腰郭を配し、その裾には三日月状の武者隠しを設けている。その下方にも三・四段の段郭が続くが堀切はなく、改修による拡張部分か。北尾根が大手筋で、中腹に土塁と地形を利用した食違い虎口を構え、沢から登って来た城道が通っている。北西尾根の西側谷に一直線に獅子垣が伸びている。主郭の北から西側の腰郭下方に数段の腰郭や帯郭が連なる。
広い城域に防御力の高い郭、空堀、虎口や五か所の井戸跡などしっかりした遺構が残り楽しめる城跡である。

道 案 内
東名高速道の音羽インタ−を下りた音羽蒲郡IC交差点でて右折し国道1号線信号に入る。西方向に810m程行った一つの目信号(長沢交差点)で左折し山すそに向かう。210m程進むと山裾に突き当たり道が左右に分かれる。左手へ進み林道を登って行くと終点の駐車場に至る。石碑と案内板が設置されている。

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井戸郭の井戸跡            主郭南側土塁


主郭の東虎口外        二郭の西方向


主郭東下の帯状腰郭       主郭北東下の井戸跡


  東郭の東方向         東郭南東下の井戸跡


南東尾根の堀切      北東尾根中腹の腰郭


北東尾根中腹の武者隠し      北尾根の食違い虎口


主郭北西下の腰郭          同左裾の三日月状空堀


主郭西下の腰郭土塁      主郭西北下の井戸跡


主郭西北下の井戸跡        主郭西下腰郭裾の空堀