寺脇城  No23561−02 (てらわきじょう)       

主郭の北東方向 主郭北西隅の土塁

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 北設楽郡設楽町東納庫字軒山
築城年 : 鎌倉末期
形  式 : 丘城
遺  構 : 土塁、空堀 堀切、虎口
訪城日 : 平成31年3月21日

歴   史
鎌倉後期の後藤弾正の居城とも伝えられるが定かではない。
永正年間(1504〜21)作手奥平氏二代の貞久の子貞次が賀茂郡足助荘名倉郷に分出し、名倉奥平氏の祖となり、現況の寺脇城はその本城として機能したと考えられている。
天正年間(1573〜92)初め、名倉奥平氏二代 奥平信光は松平元康の配下として津具方面で武田勝頼と戦った記録が残っている。
関ヶ原合戦後の慶長7年(1602)信光は、家康の四男松平忠吉の清須城移転に家臣として従っていった。
なお、戦国期の後藤氏は、戸田加賀守(奥平信光)の家人 後藤高春などがおり、後藤氏はこの地方の小領主または土豪と呼ばれた存在であったと思われている。

構造と感想
寺脇城は、東西に谷間が入り込む尾根の先端標高680m、比高20mに築かれた丘城である。
主郭は40×40mで、北背後を遮断する「コ」字に高土塁と横堀を設け、前面は地形に沿って円形になっている。土塁の北西隅が少し張り出し天端が広くなっており、櫓台であったと思われる。南辺の中程に虎口が開き、南辺に沿って東からスロープを下り、左折して坂土塁を下る。主郭の南下方には三段の腰郭が設けられている。主郭虎口を出て右折れすると幅の広い竪堀が西に向け下っている。これが大手の堀底道で、防御性を高めるためのものと思われる。

道 案 内
新東名高速道の新城インターを下りて国道151号の北方向に入る。1.9km程行った豊川を渡る手前の有海交差点で左折して国道257号に入る。国道257号を20km程行くとトンネルを抜け豊川に突き当たる。そのT字の田峯交差点を左折する。引き続き国道257号を8km程行くと設楽町役場北交差点に至る。更に国道257号を11km程行くと左手に名倉郵便局がある。郵便局から180m程先に右に入る道がある。そちらに右折し1,05km程入って行った左手にカーブミラーと寺倉城址入口の標柱が立てられている。路地に入り山裾の墓石から右手の堀底を上って行くと城跡がある。

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背後の空堀       主郭の虎口


主郭虎口の坂土塁           上段の腰郭


大手の堀底道         登り口