椎城  No23541−04 (しいじょう)       

本丸の西方向 本丸と二の丸間の堀切

城郭の概要                  
別  名 : 則定村古屋敷
所在地 : 豊田市(足助町)則定町本郷・寺田
築城年 :
形  式 : 山城(220m/120m)
遺  構 : 土塁、堀切、横堀、竪堀、虎口、井戸
訪城日 : 平成31年3月23日

歴   史
築城の時期、築城者等は明らかになっていないが、『三河国二葉松』に鈴木十内が居城したとの「則定村古屋敷」の項目があり、椎城に比定されている。また、城跡に「當椎城主鈴木重氏墳」と彫られた墓石があり、三河鈴木氏の一族とされる則定鈴木氏の持ち城と考えられている。しかし、この両者がどういう人物か分かっていない。
則定鈴木氏は徳川家康に従い、天正18年(1590)小田原討伐の後に関東に移ったが、慶長5年(1600)則定陣屋を構え、江戸時代は一千石の旗本として存続し、明治を迎えている。

構造と感想
則定陣屋跡である則定小学校の北に北東から張り出してき尾根の先端 標高220m、比高120mに築かれた山城である。
東西180m、南北25mの城域を持ち、尾根続きの北東端は切通し状の深い堀切で遮断している。その堀切を隔てて堀切側に土塁を伴った二の丸と北下に腰郭が設けられ、その二の丸には「當椎城主鈴木重氏墳」と刻まれた墓碑が建っている。二の丸は中央部が南と北側から削り込まれ細い通路状になっている。二の丸の南東隅に短いが竪土塁を落としている。二の丸西側にも深い堀切があり、それを隔てて主郭が構えられている。主郭は地形の制約を受け歪な形をし、北西隅に初源的な枡形虎口が開き、北西に伸びる一段下がった三の丸と連絡している。三の丸の西下には切岸で区画された東西に細長い北の丸が配され、中央付近で片堀切が入れられ二の丸同様に細く通路状になっている。三の丸の北下から西下には横堀が巡らされ、その横堀からは短い竪堀が数条落とされている。また、本丸と三の丸・北の丸の南下には幅の狭い腰郭が付帯している。なお、本丸南下腰郭と二の丸北下の腰郭は堀切で繋がっている。
随所に防御の工夫が施されており、また、堀切も高低差が大きく見所の多い城跡である。

道 案 内
東海環状道の鞍ヶ池スマートインターを下りて県道343号線の南方向に入る。県道343号線を道なりに3.5km程走ると左手に「則定小学校」への案内標柱が立っているY字路に至る。Y字路で左手の細い道に入り、150m程進むと変則十字路があり、その左手に則定町集会所があり、そこに駐車させて頂いた。
変則十字路の右手奥の緩やかな登り道を歩いて50m程行くと右手に鈴木正三記念館があり、記念館を越え所で左折して山裾に向うと則貞小学校の裏手に鈴木正三史跡公園があり、その右手奥の「正三みちロマンコース」の看板が立つ遊歩道が登城口である。

TOPへ 戻る


     現地掲載の縄張り図        案内図         東屋の奥の登城口


本丸と二の丸間の堀切      同堀切北端の井戸跡


二の丸の東方向        二の丸中央部の竪堀


二の丸北下の腰郭の土塁     東端の堀切        


三の丸から本丸を見る         北の丸の片堀切


北の丸北下の横堀      横堀からの竪堀