浅谷城  No23541−03 (あざかいじょう)       

主郭の北方向 主郭東側の堀切

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 豊田市(足助町)山谷町日影洞・裏山
築城年 :
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、櫓台
訪城日 : 平成31年3月23日

歴   史
『三河国二葉松』に「簗瀬九郎左衛門或太郎 法名道悦 天正二年爲武田落城」とあり、簗瀬氏が城主であったと推定できるが、築城の時期、築城者等は明らかになっていない。
戦国時代に入り三河は駿府の今川勢と尾張の織田勢の二大勢力の狭間にあったが、今川義元が永禄3年(1560)桶狭間の戦いで討死すると松平元康(のちの徳川家康)が三河を平定した。
足助は松平氏の勢力下に入った。この頃の足助は、真弓山城(現 足助城)を拠点にした足助鈴木氏の勢力下にあり、簗瀬氏はその配下であった。
やがて三河では今川領をめぐり武田勢と家康勢の勢力争いが激化。天正2年(1574)武田勝頼が東濃・北三河に侵攻し、足助の諸城と共に浅谷城も落城し、廃城になった。

構造と感想
足助城の南東2.8kmに位置し、神越川の北岸に南西に伸びた尾根先端部の標高420m、比高40mに築かれた山城である。神越川側は、比高120mはあり斜面も急峻である。
城域は東西200m、南北120mで頂部に東西25m、南北55mの主郭を構え、形状は地形に応じた矩形型で、城山八幡宮の石碑が立てられている。
主郭の北下に腰郭を配し、その東側に真ん中に櫓台のような高まりを持つ大堀切を入れ、さらに東面に土塁を伴った小郭と北下に二段の腰郭が連なる曲輪群を設けいる。その東側尾根続きは堀切と竪堀で遮断している。この堀切から小郭の南下を通路状の帯郭を大堀切まで伸ばし、西端で北に折れ土塁としている。
主郭の南西側にも堀切を隔て、眼下に神越川を望見できる露岩が散在する物見曲輪を設けている。
主郭西側の支尾根にも三段の腰郭と二条の堀切を設け城域の区画としている。
遺構はほぼ完存していて見応えのある遺構が多数存在する。

道 案 内
猿投グリーンロードの力石インターを下りて国道153号の北東方向の足助町方面に入る。国道153号を9km程走った足助大橋西交差点で右折、直ぐに巴川を渡り足助町中心部に入る。国道420号で600m程市街地を走るとY字路に至る。そこで右手に進み300m程行くと左手に足助中学校があり、、その30m程先の足助城の案内板があるT字路で左折する。770m程カーブの多い道を登って行くとT字路に至り、そこを直進する(左折すれば足助真弓山城へ)。直進して道なりに2.6km程進むと右手に「萬昌院・浅谷城址」の小さな案内板があり、そこで右折し坂道を下って320m程でY字路に至る。そのY字路を右手に下って行き230m程道なりに進むと左手に林道がある。林道へ左折し250m程進むと林道の終点で駐車スペースがある。終点の東側が城域である。

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現地掲示の絵図         主郭北下の腰郭


主郭東側の大堀切         大堀切の東側土塁


東端郭の土塁        東端郭群の腰郭


東端の堀切


物見曲輪と堀切        同堀切の竪堀


西尾根の段郭         西尾根の内側堀切