市場城  No23523−01 (いちばじょう)       

主郭と二郭の石垣 主郭の南方向

城郭の概要                  
別  名 : 大草城
所在地 : 豊田市(小原村)市場町字城
築城年 :
形  式 : 山城(390m/60m)
遺  構 : 土塁、石垣、空堀、堀切、畝状竪堀、虎口、
訪城日 : 平成31年3月22日

歴   史
応永年間(1394〜1428)には、足助重春の一族が小原谷市場古城に居城し、長禄3年(1459)には、鱸(すずき)藤五郎親信が足助の鈴木小次郎忠親から小原谷を与えられ領有した。
その後、文亀2年(1502)鱸(鈴木)藤五郎親信が市場城を築き、市場古城より居城を移したと伝えられる。親信のあと、肥後守長重、伊賀守直重、越中守重愛までの88年間、市場城は鱸氏四代の居城であった。
天正11年(1583)重愛は徳川家康に従って串原・広瀬の城を攻めて功を挙げ、所領の加増を受け、主郭やその周辺の切岸、門などを石垣で固め、帯曲輪を増設などの大改修を行なった。しかし、重愛は、天正18年(1590)関東移封の命に従わなかったため、文禄元年(1592)小原城から退去させられ、城は破却、廃城になったと云う。

構造と感想
市場城は、小原村の中央部、大草集落南東の標高390m、比高60mの山上に築かれた山城である。
山頂に本丸を配し、その南に二段の腰郭を連ねている。この中心部は天正後期の大改修で南側から西側を石垣で固められた。本丸中央部には二ヵ所に土塁片が残るが、『諸国古城之図』に掲載される「三河市場城図」によると食い違い虎口を形成していた一部と思われる。本丸内はこの虎口で南と北の区画に分かれられていた。現状では、本丸は南北に長い一つの区画になっており、石垣も本丸の南西部から南側にかけて一部が残存するのみとなっている。
本丸南西下の谷部には、居館と家老の尾形三左衛門の屋敷跡と伝わる「さんざ畑」と呼ばれる二つの区画があり、さんざ畑の北隅には櫓台とセットになった石垣造りの外桝形虎口が設けられている。外桝形虎口を出て北へ坂道を少し降ると明瞭な畝状竪堀群が残る。この竪堀群は天正後期の改修で、竪堀の起点部が外回りの城道を造るため削り取られ、本来の機能を失っている。
本丸から南東に掛けての石垣や大規模で明瞭な畝状竪堀群、空堀や枡形虎口など見応えたっぷりの遺構が多々あり、大満足の訪城であった。

道 案 内
猿投グリンロードの山中インターを下りて国道419号の北方向に入る。国道419号を道なりに13.7km程北進した小原町前田交差点(信号交差点)の80m程先の本城小学校への案内案内板があるT字路で右折する。道なりに950m程進むと右手に駐車場があり市場城の説明板がある。対面側の斜め右に登る道が登城路である。

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         現地掲載の縄張り図               登り口


中心部の南面石垣       中心部東面石垣の残骸


二の丸の南西方向     二の丸南東下方の空堀



さんざ畑の南西方向           さんざ畑の櫓台と虎口


さんざ畑の外桝形虎口


畝状竪堀群


北西尾根の内堀切          北西尾根の外堀切の土橋