西尾城  No23213−01 (にしおじょう)       

二ノ丸表門(鍮石門) 本丸丑寅櫓と堀

城郭の概要                  
別  名 : 西条城、錦丘城、鶴城、西丘城
所在地 : 西尾市錦城町
築城年 : 承久年間
形  式 : 平城
遺  構 : 石垣、堀、土塁、井戸、復元櫓、城門、
訪城日 : 平成30年11月25日

歴   史
西尾城の前身である西条城は、承久年間(1219〜22)足利義氏が承久の乱の戦功により三河守護に任じられて築城したといわれるが、伝説の行きを出ないとされる。義氏の庶長子の長氏が吉良荘を継ぎ、地名にちなんで吉良を称し、西条城は西条吉良氏の居城となった。
戦国時代には今川氏が三河に進出し、西条城にも今川方の三浦・牧野氏らが守将として在城した。しかし、永禄3年(1560)今川義元が桶狭間の戦いで討死すると、翌年には松平家康は家臣 酒井正親に牧野成定が籠る西条城を攻略させ、正親を西条城主とした。正親は西条を西尾と改めた。その後、徳川家康と羽柴秀吉とが対立する中で、正親の後を継いだ重忠は天正13年(1585)西尾城の大改修を行ない、屋敷の集合体の縄張りから馬出を持つ求心的な縄張りの近世城郭へと変貌させた。
天正18年(1590)家康は関東に移封され、秀吉配下の田中吉政が岡崎城主で入城し、西尾城は吉政の持ち城となり、三の丸の拡張や大手門などの楼門や櫓を建造する改修を行なった。
慶長5年(1600)吉政は関ヶ原合戦の後に筑後国柳河に転封となり、替わって翌年本多康俊が西尾2万石の藩主として入城。その後、西尾城主は松平氏、本多氏、太田氏、井伊氏、増山氏、土井氏、三浦氏と徳川譜代大名がめまぐるしく交替したが、明和元年(1764)出羽山形から松平(大蛤)乗祐が6万石で入封。以後、西尾城は松平氏5代の居城として明治維新を迎えた。

構造と感想
西尾城は、西尾市街の南西端、矢作川南岸の標高9m、比高5mの大地端に築かれていた。往時は、南西端に本丸を置き、その北に二ノ丸、北ノ丸を連ね、本丸と二ノ丸の東には姫丸、東ノ丸を配し、北ノ丸と東ノ丸の北から東を鉤型の三ノ丸が囲んでいた。更に、この中心部の北から東に外郭を設けていた。各曲輪は水堀で区画され、曲輪には囲繞する石垣や土塁上に櫓や土塀を築き、虎口は桝形で堅固な城門が構えられた「総構え」の城であった。
現在は、平成6年の発掘調査に基づき、本丸、二ノ丸の一部、東ノ丸の一部が西尾市歴史公園として整備され、市民の憩いの場となっている。
西尾城は、天守が二ノ丸にあった珍しい城で、平成25年に西尾城二ノ丸整備事業として天守台と二ノ丸丑寅櫓台が復元され、平成8年に復元された三層三階の本丸丑寅櫓と二之丸表門の鍮石門(ちゅうじゃくもん)とともに城跡としての景観を取り戻しつつある。その後も二ノ丸丑寅櫓と土塀の復元工事が続けられている。

道 案 内
東名高速道路の岡崎インターを出て国道1号の北西方向に入る。2.7km程進むと右手に岡崎公園(岡崎城跡)があり、そこから三つ先の信号交差点 矢作町加護畑信号交差点を左折し県道44号線に入る。県道44号線を650m程南下した矢作町橋塚東交差点で斜め右手の細い方の道に進む。引き続き県道44号線を道なりに10km程進むと矢作川沿いの米津橋北に至る。そこで左折して県道12号線の矢作川に架かる米津橋を渡り、2.6km程県道12号線を道なりに進むと名鉄西尾駅前に至る。駅前を過ぎた花ノ木町四丁目交差点で右折し県道383号線に入る。西に700m程進むと左手に城址公園があり城跡である。

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            二ノ丸復原計画の鳥瞰図     本丸丑寅櫓


江戸期の絵図        本丸丑寅櫓と二ノ丸鍮石門の復原鳥瞰図


二ノ丸天守台       二ノ丸西内


天正期の本丸前馬出し跡      本丸北側の土塁    


二ノ丸表門前桝形の土塁       三ノ丸東側の新門跡