本證寺  No23212−01 (ほんしょうじ)       

東側内堀、鼓楼、表門 北東隅の内土塁と堀

城郭の概要                  
別  名 : 本証寺城
所在地 : 安城市野寺町野寺
築城年 : 鎌倉時代後期
形  式 : 平城(城郭寺院)
遺  構 : 堀、土塁、
訪城日 : 平成30年11月25日

歴   史
鎌倉時代後期(13世紀末ころ)に、慶円(きょうえん)上人によって開かれたと伝えられる。その後、室町時代中期(15世紀後半)には連如上人の教化によって浄土真宗の高田派から本願寺派(いわゆる一向宗)に転じた。この頃から三河地方における本願寺派寺院の組織化が進み、後に岡崎市の上宮寺(じょうぐうじ)、勝鬘寺(しょうまんじ)とともに真宗三河三か寺と呼ばれた。そして、戦国時代(16世紀前半)になると、境内を囲む二重の堀と土塁が築かれ、外堀の内部は「寺内」として領主から不入権(租税免除と治外法権)を獲得し、このため多くの商工業者が集住し、高い中心地機能を発揮した。
三河一向一揆の発端は永禄5年(1562)本證寺でのいさかいとされ、寺内に対する検断実施と、その後の松平家康(のちの徳川家康)の介入という寺内不入権侵害に対する抵抗として起こされた。
永禄6年(1563)秋ごろ一向宗の坊主と門徒衆に、一揆を機会に松平氏からの自立を目指す国人領主たちが加わり、家康と争った。翌年には寺内不入の確認などを条件に和議が成立したが、家康は一揆解散後、一転して一向宗を禁じ、改宗を拒んだ坊主衆は領国追放となり、建物も破却されたと伝えられる。本證寺10代空誓(くうせい)も加茂郡菅田輪(現豊田市)に逃れた。一揆の罪が赦免されたのは約20年後の天正13年(1585)で、「道場屋敷」の保証、「寺内」住人である「家来三十間」の環住と租税免除が認められた。その後、江戸時代を通じて、境内の各建物が再建され、三河国の触頭としての役割を担い、幕末には二百余の末寺を有するほどの寺勢を誇った。

構造と感想
堀に囲まれた寺内は約250m四方あり、その中心部の遺構は現在もよく残っている。
現在確認できる寺内の規模と構造は一揆後の破却から天正期以降に再興されたものであるが、一揆後の破却は象徴的な部分や建物の破壊に留まった考えられており、一揆勢の拠点となった盛時の規模と大差ないとされる。
中心部は堂塔の建つ約100m四方の曲輪と庫裏や台所の建つ同規模の曲輪を東西にずらした構成で、これらを囲繞する内堀はほぼ完存で、土塁は庫裏の北側に一部が残り、北東隅では二重土塁となっている。内堀の状態は、本堂周囲が水堀状態で、庫裏の周囲が空堀状態となっている。外堀は北側と東側の一部に残存している。
寺内を囲繞する塁線には何ヶ所も折れを入れ、横矢を掛けており、また、外郭の虎口は江戸期の絵図から食違い或いは桝形であったと見られており、国人領主の単純な城館レベルとは異なる技巧に富んだ造りで、本願寺教団の技術が導入されたと考えられている。
なお、境内には、寛文3年(1663)再建の本堂をはじめ、元禄16年(1703)の鐘楼、宝暦10年(1760)の鼓楼、文政6年(1823)の経蔵、1700年前後の裏門など江戸時代前期から中期の建物が残り、その威風堂々とした姿は水堀と一体となって盛時の城郭寺院の雄姿を彷彿とさせている。

道 案 内
東名高速道路の岡崎インターを出て国道1号の北西方向に入る。2.7km程進むと右手に岡崎公園(岡崎城跡)があり、そこから三つ先の信号交差点 矢作町加護畑信号交差点を左折し県道44号線に入る。県道44号線を650m程南下した矢作町橋塚東交差点で斜め右手の細い方の道に進む。引き続き県道44号線を道なりに7.5km程進むと右にコンビニ、左にパチンコ店のある小川町金政交差点に至る。そこで左折して県道292号線に入る。230m程先の一つ目の信号交差点 桜井小学校北交差点で右折し、南方向の980m程先の右手が本證である。対面に駐車場がある。

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    現地形上での本證寺伽藍と「寺内」       江戸後期の本證寺絵図


表門        本堂東側の堀


本堂東側堀の折れ        北西隅の外堀


庫裏北側の二重土塁      裏門北側の土塁