広見城  No23211−11 (ひろみじょう)       

主郭側面の石積み 主郭側面の石積み

城郭の概要                  
別  名 : 西広見城、広見村古城
所在地 : 豊田市広幡町阿賀滝・大光寺
築城年 : 天文年間
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、横堀、竪堀、虎口、礎石、石垣、井戸
訪城日 : 平成31年3月23日

歴   史
築城は、天文年間(1532〜55)中条将監秀正によるものと云われている。
城主は、『三河国二葉松』によると中条将監季長と伝え、中条氏は近在の八草城主でもあったと記されている。
中条氏の出自は諸説あるが、中条将監の名は『信長公記』にも散見され、早くから織田信長の家臣であったと思われる。『織田信雄分限帳』には「中条弥十郎・勝助 千六百貫文 目録別ニ有」とあり、弥十郎・勝助は中条将監の子息であった。(『豊田市史』) 貫高の大きさから、中条弥十郎・勝助は織田信雄領の支城主と考えられ、その支城は広見城であった可能性が高いとされ、天正期((1573〜91)においては金谷城(挙母城)と並び、織田氏の高橋郡経営の拠点的な城館であったと考えられている。

構造と感想
豊田市の北西部、標高207m、比高90mの山上に構えられ、東西約180m、南北約200mの広い城域は縄張りから三つに分けることが出来る。山頂から南側に開口する谷を馬蹄形状に囲い込む曲輪群、これらに囲われた谷部分、山頂の北側堀切を隔てた曲輪群である。 
山頂に「へ」字状の東西に細長い主郭を構え、その南東隅に虎口が開き、谷部の曲輪群へと降っている。南東尾根に三段の郭を連郭状に連ね、一二段間に堀切が入れられ、堀切上に一段目郭の南隅から谷を塞ぐ様に竪土塁も伸びている。それらの南東外側に二段の郭を設けている。南西尾根も主郭下の堀切を隔て土橋があり、三段の郭を連郭状に連ねる。二三段間にまた堀切を入れている。谷部は主郭下の二段、南西尾根裾の二段、その下尾根間の狭隘部に一郭を設けている。尾根下の二段の郭には礎石や石積み、石積みを伴った虎口が残存し、この二段の郭には礎石建物を通って入る構造になっていたようである。城内道は建物から真直ぐ下り尾根裾の郭に入る。その先の狭隘部郭の南端には土留め用の石積みを設け城域の区画としている。主郭北下に堀切を入れ、その先尾根筋に細長い郭を設け、東斜面に三段の腰郭、西斜面に横堀が見られる。
郭は小さく、地形に応じた形状で、複雑な縄張りをしており、石積や、土塁、堀など見所の多い城である。

道 案 内
猿投グリーンロードの八草インターを下りて国道155号の南東方向に入る。国道155号を1.9km程南道に行った大畑町不流交差点(伊保川を渡る手前)で左折し、伊保川沿いの道路に入る。川沿いを480m程北東に進むと伊保川に架かる阿賀滝橋に至る。橋を渡らずに左手川沿いの細い道に入る。細い道を180m程行くと左側に小さな平家の広幡下集会所があり、その先50m程の所に登り口がある。説明板等が設置されている。広幡下集会所横に余白有り。

:城跡     :登り口 TOPへ 戻る


主郭南下郭の礎石           礎石周囲の土留め石積み


谷部の竪土塁         谷部の井戸跡


谷先端の郭           谷先端の土留め石積


主郭南西下堀切       南西尾根の土橋と竪堀


南西尾根の上段        南西尾根の下段