東広瀬城  No23211−10 (ひがしひろせじょう)       

居館跡の土塁 主郭の城址碑

城郭の概要                  
別  名 : 広瀬城、広瀬東城
所在地 : 豊田市東広瀬町字城下
築城年 : 興国3年(1344)
形  式 : 平山城(100m/20m)
遺  構 : 土塁、堀
訪城日 : 平成31年3月23日

歴   史
康永3年(1344)この地の土豪 児島高徳が築いたと云われる。高徳の子孫は、この東広瀬城を居城とし三宅を称した。
三宅氏はたびたび松平氏と対立してきたが、永禄3年(1560)桶狭間合戦の後に三河掌握を目指した松平元康(後の徳川家康)に攻められ、三宅氏は応戦したが支えきれず東広瀬城は落城した。
この戦いで三宅高貞の養嗣子・高清が討死、高貞は元康に臣従し、元亀4年(1573)に没している。
天正18年(1590)三宅康貞は徳川家康の関東移封に従い、武蔵見賀尻5千石を領して移封(後に三河田原1万2千石)となり東広瀬城は廃城になった。

構造と感想
東広瀬城は、矢作川左岸の標高100m、比高20mの独立丘陵上を詰め城とし、東南麓に土塁で囲繞された居館を構えていた。
丘陵の頂部が主郭で廣瀬神社が鎮座し、自然石の城跡碑が建てられている。主郭の西側一段下に二郭、その南西下方に二段の腰郭、主郭の南東下方にも腰郭がある。東麓には居館跡があり、その西側と南側を囲む大規模な土塁が残存している。堀は消失したようである。この土塁上を歩いて行くと二郭に至る。西広瀬城と東広瀬城は、矢作川を挟んで500m程の至近距離で対峙している。

道 案 内
猿投グリーンロードの枝下インターを下りて県道11号線の北東方向に入る。道なりに1.3km程進むと左手に西広瀬小学校があり、小学校から400m程先の飯野川を渡った所の西広瀬町交差点で右折する。250m程先の広瀬交差点で左折し、190m程東進した左手に城址碑が建てられている。そこで左折し40m程入ると左手に土塁があり、左前方の小山が城跡である。

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入口の城址碑        東より望む               


主郭の東方向           主郭と二郭