東広瀬城 No23211−10 | (ひがしひろせじょう) |
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居館跡の土塁 | 主郭の城址碑 |
◆ 城郭の概要 |
別 名 : 広瀬城、広瀬東城 |
所在地 : 豊田市東広瀬町字城下 |
築城年 : 興国3年(1344) |
形 式 : 平山城(100m/20m) |
遺 構 : 土塁、堀 |
訪城日 : 平成31年3月23日 |
◆ 歴 史 |
康永3年(1344)この地の土豪 児島高徳が築いたと云われる。高徳の子孫は、この東広瀬城を居城とし三宅を称した。 三宅氏はたびたび松平氏と対立してきたが、永禄3年(1560)桶狭間合戦の後に三河掌握を目指した松平元康(後の徳川家康)に攻められ、三宅氏は応戦したが支えきれず東広瀬城は落城した。 この戦いで三宅高貞の養嗣子・高清が討死、高貞は元康に臣従し、元亀4年(1573)に没している。 天正18年(1590)三宅康貞は徳川家康の関東移封に従い、武蔵見賀尻5千石を領して移封(後に三河田原1万2千石)となり東広瀬城は廃城になった。 |
◆ 構造と感想 |
東広瀬城は、矢作川左岸の標高100m、比高20mの独立丘陵上を詰め城とし、東南麓に土塁で囲繞された居館を構えていた。 丘陵の頂部が主郭で廣瀬神社が鎮座し、自然石の城跡碑が建てられている。主郭の西側一段下に二郭、その南西下方に二段の腰郭、主郭の南東下方にも腰郭がある。東麓には居館跡があり、その西側と南側を囲む大規模な土塁が残存している。堀は消失したようである。この土塁上を歩いて行くと二郭に至る。西広瀬城と東広瀬城は、矢作川を挟んで500m程の至近距離で対峙している。 |
◆ 道 案 内 |
猿投グリーンロードの枝下インターを下りて県道11号線の北東方向に入る。道なりに1.3km程進むと左手に西広瀬小学校があり、小学校から400m程先の飯野川を渡った所の西広瀬町交差点で右折する。250m程先の広瀬交差点で左折し、190m程東進した左手に城址碑が建てられている。そこで左折し40m程入ると左手に土塁があり、左前方の小山が城跡である。 |
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![]() ![]() 入口の城址碑 東より望む ![]() ![]() 主郭の東方向 主郭と二郭 |