西広瀬城  No23211−09 (にしひろせじょう)       

大堀切 主郭の土塁

城郭の概要                  
別  名 : 広瀬城、広瀬西城、西前城
所在地 : 豊田市西広瀬町字西前
築城年 :
形  式 : 平山城
遺  構 : 土塁、堀切、井戸
訪城日 : 平成31年3月23日

歴   史
西広瀬城は、三河の土豪 佐久間氏が築いたとされ、寛正元年(1460)頃の城主に佐久間信盛(信長家臣とは別人)、応仁元年(1467)頃 信直、弟信重の名が残る。その後、三宅氏を経て、享禄4年(1531)頃 松平家範が城主となったが、天文2年(1533)には織田信秀家臣 佐久間全孝(重行)が城主となった。全孝は松平氏と対立関係にあり、松平清康に攻められ城を追われたが、天文4年(1535)守山崩れで清康が家臣に討たれると、全孝は西広瀬城に返り咲いた。
天文18年(1549)全考は家臣岩松弥八を差し向け松平宗家8代 岡崎城主 広忠を刺殺したとされ、これに対して松平氏が派遣した天野賢景に襲われた全孝は重傷を負ったと云う。
天文22年(1543)全孝の子 長七郎は、御船城主、東広瀬城主 三宅貞保、高貞、光貞らに攻められ落城、西広瀬城には三宅帯刀が入った。
しかし、永禄元年(1558)三宅高貞は織田方に寝返ったため、永禄4年(1561)松平元康(後の徳川家康)に攻められ大敗を喫した。
天正4年(1576)頃からは、織田信長家臣の佐久間信盛や兄弟の信直、嫡男の信栄が居城したが、天正8年(1580)信長に追放されると佐久間父子は高野山に入った。天正10年(1582)信栄は赦免され織田信忠に仕え、本能寺の変後は織田信雄に仕え、小牧長久手の戦いにも従軍している。

構造と感想
西広瀬城は、飯野川の右岸に矢作川に向け南東に張り出してきた尾根先端標高103m、比高20mに築かれている。
頂部に主郭、南西側に一段下がった二郭を配し、北西側を除く山腹に帯郭が取り巻き、その南西端が広く腰郭となっている。北西の尾根続きは幅の広い巨大な堀切で遮断している。
主郭の北西側には土塁又は櫓台が付帯し、帯郭の北西側にも土塁を伴っている。背後への防備が厳重である。遺構は良く残っているが、密ではないが竹藪となっておりやや見難いのが残念である。

道 案 内
猿投グリーンロードの枝下インターを下りて県道11号線の北東方向に入る。道なりに1.3km程進むと左手に西広瀬小学校があり、小学校から400m程先の飯野川を渡った所の西広瀬町交差点で左折する。県道350号線に入り北に200m程行ったT字路で左折し、50先で再び飯野川を渡る。渡って直ぐに右折し山裾を通る東海自然歩道に入り、150m程北上すると城址碑と説明板がある。

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主郭の北西方向      二郭の上段


横堀                  切岸