山中城  No23202−03 (やまなかじょう)       

主郭の西方向 二郭の南東方向

城郭の概要                  
別  名 : 医王山城、羽栗城
所在地 : 岡崎市舞木町字城山
築城年 :
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、土橋、虎口
訪城日 : 平成30年11月24日

歴   史
築城年代は定かでないが、三河国守護仁木義長の守護代である西郷氏が築城したとされている。
文明年間(1469〜87)初め、西郷頼嗣は岩津城主 松平信光の攻撃を受けて降伏し、信光の子 光重を娘婿に迎えて大草に隠棲した。西郷氏の家督を継いだ光重は岡崎松平家の初代とされる。
永正5年(1508)岩津城を本拠とした松平宗家は、今川勢に岩津城を攻め落とされて衰退、その後も松平広忠の叔父・三木松平信孝による岩津押領や元亀2年(1571)の武田氏による攻撃などを受け松平宗家は滅んでいった。なお、今川侵攻時、安祥城に分家していた松平親忠(信光の3男)によって今川勢は追い払われている。この時期の山中城の状況は不明であるが、岡崎松平家は明大寺付近で今川勢と対峙したと思われ、山中城近くで今川勢を追撃したとの伝承が残る。
岩津松平家が滅亡すると安祥松平家が松平宗家となり、親忠・長親・信忠・清康・広忠・家康と続くことになる。
大永4年(1524)岡崎松平家の3代信貞の時、安祥松平家の清康による奇襲を受け一夜にして山中城は落城。信貞は明大寺城へ退き、清康は安祥城から山中城へ本拠を移した。大永7年(1527)頃清康は明大寺城へ移り、信貞は大草へ隠退し、清康に仕えるようになった。
天文4年(1535)尾張守山の陣中で家臣の謀反により清康が命を落とすと、山中城は今川氏の西三河攻略の拠点となっていった。
天文17年(1548)今川義元と織田信秀との2度にわたる小豆坂合戦時、山中城は岡城、生田城と共に今川軍の重要拠点となり、これ以後「医王山」として史料に度々登場する。
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで義元が討たれると松平元康(後の徳川家康)が義弟・久松俊勝を先陣として山中城を攻め落とし、奪還を果たしている。
この時期、織田や今川に備えるため、大給城、岡崎城、山中城、岩略寺城などの大規模な改修を行なったと考えられている。
永禄6年(1563)三河一向一揆では、一時的に一揆側に占領されたが、元康との和議で治まった。永禄7年(1564)以降は酒井忠次が山中を領し、酒井氏が管理を行なったと思われ、天正18年(1590)家康の関東移封によって山中城は廃城となった。

構造と感想
山中城は、岡崎と吉田のほぼ中間に位置し、東海道と鎌倉街道(吉田道)の分岐点を見下ろす通称 城山、岩尾山、医王山とも呼ばれる標高195m、比高100mの山上一帯に築かれている。城域は、東西400m、南北200mに及び、愛知県内の戦国期山城としては最大規模である。
山頂に主郭を構え、北西に一段低い二郭が配されている。主郭の西側を除く三方を通路を兼ねた帯郭が取り巻く。二郭は三方に土塁が巡り、その東端の南と北に虎口が開く。二郭の東下方には三段の帯郭が設けられ、その南端に沿って南虎口からの城道が西方へと下っている。各帯郭の南端には武者隠しが構えられ、城道を守備している。北虎口からの城道は、主郭の北側帯郭を東に向い、鞍部の虎口を経て、坂道を少し上がり東郭に連絡するルートと東郭の南裾を回り込むルートに分岐している。東郭は四囲を土塁が囲繞している。
二郭から西と北西へ、東郭から北と東へそれぞれ支尾根が伸びている。その西尾根は、三段の帯郭と更に下方に二重堀切を設け遮断している。城道は外側の堀切の所で左に折れ南へと下って行く。内側の堀切を北へ抜け右手の坂道を上がると下段の帯郭に入る。帯郭を北に進むと端部が北西尾根の堀切と繋がっている。堀切の上方には二段の段郭があり、北東側斜面には三本の竪堀が入れられ、二郭、主郭への回り込みを防いでいる。段郭間は片堀切の土橋で連絡する。下段には南西面に土塁が付帯し、土塁中央に虎口が開き、逆「く」字の坂道を下りると下段の帯郭へと出る。
北尾根は、先端を堀切で遮断、堀切上方の段郭は三方に土塁が巡り、東西に腰郭が付帯している。腰郭の北端は竪堀を落とし回り込みを防いでいる。土塁囲みの南は小段差が見られ明瞭でない。最奥に背後に空堀を持つ高低差2mの三角形の台状地が北東に突き出し、狭隘部を造り、この狭隘部を通り抜け南東に進むと東尾根基底部に設けられた馬蹄形に土塁が巡る虎口的小郭に至る。狭隘部から虎口的小郭間は上方の土塁を伴った「く」字形の腰郭から監視されている。
東尾根の虎口的小郭の先には、二段の段郭が続いている。下段には片堀切の土橋を戻るように渡り入る。上段の郭は城道を兼ね虎口的小郭の南側を通り、東郭南裾を回り込み鞍部へと連絡している。
この城は鞍部を境に東部分と西部分で縄張りに差が見られ、西部分は帯郭中心の構造であるが、東部分は多様な防御施設を重ねる高度な造りとなっており、徳川氏が改修したと考えられている。

道 案 内
東名高速の音羽蒲郡インターを下りて国道1号の西方向に進入する。国道1号を道なりに6.3km程走ると山中小学校北交差点に至る。この交差点で左折し県道324号線に入り、直ぐに山中小学校横を通過する。そのまま道なりに650m程行くと羽栗病院の案内板がある。その直ぐ先の右手に山中城への小さな案内板があり、そちらへ右折し細い道に入る。そこから90m程先に山中城の説明板があり、そこが登り口である。  90mの道中に橋があり、その橋詰の余白に駐車可。

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二郭の南虎口          西側帯郭


西尾根の内側堀切            北西尾根の下段段郭


北西尾根の堀切             二郭北東側の帯郭と竪堀


北尾根の下段段郭           下段段郭の土塁


北尾根の竪堀           北尾根の堀切


東郭        東郭北下の腰郭


        馬出             東尾根下段の片堀切