岩津城  No23202−02 (いわつじょう)       

主郭の虎口を見る 主郭への土橋

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 岡崎市岩津町東山
築城年 :
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀、土橋、虎口、
訪城日 : 平成30年11月25日

歴   史
応永28年(1421)松平氏三代信光が築城したと云われる。信光は松平氏の祖 親氏の子であったが、親氏は信光が幼少にして没したため、家督は親氏の弟 泰親が継ぎ、後に信光が家督を譲られ三代目となった。
信光は、岩津の中根大膳を敗って、松平郷から岩津城へ移り、松平氏の居城とした。
山間の松平郷から三河平野への出口である岩津に拠点を築いた信光は、その後平野中央部へと勢力を伸ばし、文明初年(1470)頃には安祥城を落とし移り、岩津城には嫡子 親長を置いた。
しかし、松平氏の勢力伸長に対して、明応2年(1493)三河国加茂郡依の中条氏が碧海郡上野城の阿部氏、加茂郡寺部城の鈴木氏、同郡伊保城の三宅氏、同郡八草城の那須氏らを糾合して松平氏を攻めた。この時、親長と次男の乗元は在京中であり、安祥松平家の親忠(信光の三男)が松平勢全軍を指揮して中条勢を撃退し、武名を上げたと云われる。また、永正5年(1508)今川氏親名代の伊勢宗瑞(北条早雲)率いる今川軍が大樹寺を本陣として岩津城を攻め落城させたが、安祥城の長親(親忠の嫡子)の救援軍に手を焼き、三河侵攻をあきらめて撤退したと云う。この混乱の中で松平宗家である岩津松平家は衰退し、その後、松平広忠の叔父・三木松平信孝による岩津押領や元亀2年(1571)の武田氏による攻撃などで岩津城は歴史から姿を消していった。
天正2年(1584)小牧長久手の合戦の時に徳川家康によって改修されたと云うが、廃城年は不明である。

構造と感想
東から矢作川に向け伸びる尾根先端部の標高74m、比高50mに築かれた山城である。南斜面は緩やかで宅地開発が進みかなり破壊され、また、東斜面は東名高速道路で一部が切り崩され、辛うじて中心郭群だけが残っている。
中央に主郭を置き、南側に土塁を持つ。土塁の中央には虎口が開き、北側を除き主郭を囲繞する空堀に虎口から馬出へ渡る土橋が架かる。土塁沿いに西から北へ下るスロープが伸び、主郭の西側から北側を円弧状に囲む上段腰郭に連絡している。上段腰郭の北西隅には内桝形虎口が開き、下段腰郭に連絡している。下段腰郭の南側は土塁と空堀で防御され、土塁からは主郭西側の空堀に横矢を利かせている。主郭の北東下方にも腰郭が付帯している。
馬出の南側には土塁が付帯し、その東側に二郭が配されている。二郭は南北二段からなり、北側を除く三方を「コ」字状の土塁が巡らされ、馬出と二郭群を逆「3」字状の空堀が取り囲んでいる。この空堀の外側土塁を西に回り込み、馬出、土橋、主郭へと連絡する。
岩津城は複雑な縄張りで、加えて加工も良好な遺構がそのまま残っており見応え十分な城跡である。

道 案 内
東名高速の岡崎インターを下りて国道1号の西方向に進入する。国道1号を2.8km程走ると岡崎公園前交差点で、その一つ手前の康生通南信号を県道39号線の北方向に右折する。県道39号線を道なりに5.2km程北上した岩津町交差点の10m先で右折する。「岩津天満宮」を目指し東に500m程進むと東名高速道を跨ぐ橋に出る。その手前左側の小山が城跡である。(橋を渡ると岩津天満宮)

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       空堀と土橋           二郭の下段から土塁を見る


二郭西側の空堀              馬出の虎口


堀を隔てる土橋(馬出へ)         主郭土塁上の城址碑