岡崎城  No23202−01 (おかざきじょう)       

天守と井戸櫓 本丸への土橋と青海堀

城郭の概要                  
別  名 : 竜城、竜ヶ城
所在地 : 岡崎市康生町
築城年 : 享徳元年(1452)または康生元年(1455)
形  式 : 平山城
遺  構 : 堀、石垣、土塁、石塁、虎口、井戸
訪城日 : 平成30年11月25日

歴   史
享徳元年(1452)または康生元年(1455)三河国守護仁木氏の守護代であった西郷稠頼が菅生川(乙川)北岸の龍頭山と呼ばれる半島状の段丘先端に、北方に備えるための砦を築き、龍燈山城と呼んだのが始まりとされる。
文明年間(1469〜87)初め、西郷頼嗣は松平信光の攻撃を受けて降伏し、信光の子光重を娘婿に迎えて隠棲した。西郷氏の家督を継いだ光重は岡崎松平氏の初代となり、享禄4年(1531)三代信貞のときに松平清康との争いに敗れ、清康(徳川家康の祖父)が城主となり、本格的な城へと改修した。
天文4年(1535)清康は尾張守山の陣中で家臣阿部正豊の謀反により命を落とし、家督は広忠が継いだ。天文18年(1549)広忠が没すると、今川氏の支城として城代が置かれ、嫡子 竹千代(徳川家康)は駿府に送られ過ごすことになった。
永禄3年(1560)今川義元が桶狭間の戦いで敗死すると、松平元康(徳川家康)は岡崎城を取り戻し、今川家から独立を果たし、織田信長と同盟を結び、その後三河を平定した。
元亀元年(1570)三河を平定した家康は浜松城に移り嫡子信康が岡崎城主となった。しかし、天正7年(1579)信康は謀反の疑いをかけられ自刃、以後、重臣の石川数正、本多重次らが城番を務めた。
天正18年(1590)徳川家康が関東へ移封となると、豊臣家臣の田中吉政が近江国八幡から岡崎城主となり、吉政は家康への抑えの拠点の一つとして、岡崎城を拡張、石垣や城壁などを用いた近世城郭に整備した。
家康が江戸幕府を開いてからの岡崎城は、「神君出生の城」として神聖視され、本多氏、水野氏、松平氏など家格の高い譜代大名が城主となった。石高こそ5万石前後と少なかったが、諸大名は岡崎城主となることを誇りとしたようである。
明和6年(1769)本多氏(忠勝系統)が城主となって以来、本多氏5代で明治維新を迎えた。

構造と感想
岡崎城は矢作川と乙川が合流する北東側の標高20m、比高10m程の微高地に築かれた平山城で、現在は本丸、持仏堂曲輪、風呂谷曲輪、二の丸、板谷曲輪が岡崎公園として整備されている。特に本丸周囲の遺構はよく残存しており、中世と近世の城郭遺構の両方を楽しむことができる。
往時は、本丸を中心に持仏堂・隠居・風呂谷などの曲輪が取り巻き、その北に二の丸・北曲輪が、それらの東側に三の丸・東・菅生の曲輪が、三の丸の東側に備前曲輪、北側に大手門が構えられた浄瑠璃曲輪が、本丸から北曲輪の西側には板谷曲輪が、板谷曲輪の西側に稗田曲輪と白山曲輪が広がる複雑な縄張りであった。三の丸は家老級の屋敷地で、二の丸は藩主の住居があった。
本丸の北西隅には、元和3年(1617)本多康紀が再築した三重三階地下一階で、東に井戸櫓、南に付櫓を持つ複合天守が建っていたが、明治に入って取り壊され、昭和34年に鉄筋コンクリートで再建された。内部は江戸時代の岡崎を紹介する歴史資料館になっている。
天守曲輪には脱出用に北側の青海堀を跨ぎ持仏堂曲輪と称される馬出しへ廊下橋が架かっていた。本丸の北東隅に内桝形虎口が開き、虎口前の土橋を渡り左に折れ回廊状の土橋を経て持仏堂曲輪へ通じている。持仏堂曲輪の東側の内桝形虎口を出ると二の丸で御殿が存在した。二ノ丸を「御誕生曲輪」と称し、家康が生まれたと伝承されている。二の丸は東側の七間門(今は大手門が建っている。)を出ると東曲輪で、東隅櫓と塀が再建されている。板谷曲輪には「産湯の井戸」が残っている。

道 案 内
東名高速の岡崎インターを下りて国道1号の西方向に進入する。国道1号を2.8km程走ると岡崎公園前交差点で、左手に大手門と塀があり、駐車場もある。

TOPへ 戻る



 
辰巳櫓と龍城堀             本丸埋門跡           


本丸への回廊状土橋              持仏堂曲輪


     本丸北側の青海堀            持仏堂曲輪の切岸と青海堀


本丸への廊下橋               龍城堀


二の丸の腰巻石垣          大手門


東隅櫓と塀                   産湯の井戸


板谷門跡               板谷曲輪の土塁