大見城  No22329−01 (おおみじょう)       


城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 伊豆市柳瀬字城山
築城年 : 平安末期
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、空堀、堀切、竪堀、虎口
訪城日 : 平成23年2月5日

歴   史
大見城は、平安末期に土豪大見氏のうち大見平三家政か、その子・小藤太成家が築いたと推定されている。
大見氏は、大見郷の土豪で源頼朝の挙兵当初から参陣し、頼朝の厚い信頼を得て、一族は下野国、伊勢国、加賀国、美濃国、武蔵国で地頭職に任しられている。戦国時代に入ると、梅原六衛門、佐藤藤左衛門、佐藤七郎左衛門の三人は、伊豆に侵攻した伊勢宗瑞(北条早雲)にいち早く従って活躍し「大見三人衆」と呼ばれた。
明応6年(1497)早雲が攻め取った柏久保城を奪い返そうと、狩野氏が柏久保城に攻め寄せると、大見三人衆は大見城より出陣し、狩野氏の軍勢の背後を突き撤退させ、宗瑞から感状を受けている。このように大見氏は、宗瑞と狩野氏との戦いにおいて戦果をあげ、宗瑞の伊豆平定に大きく寄与した。
先の宗瑞の感状において、大見三人衆は年三回の城の修復普請を命じられており、この頃に大見城の改修が行われたと推測され、その後、天正18年(1590)北条氏が滅亡し廃城になるまで大見氏が大見城を守備したと考えられる。

構造と感想
大見城は、大見川と冷川が合流する南東側の標高207mの城山に築かれている。東伊豆の伊東と修善寺を結ぶ街道を押さえる要衝に位置する比較的小規模な山城である。
構造は、丘陵続きの南側を落差12mの大堀切で遮断し、そこから北に向け主郭、四段の腰郭を続けて配置している。主郭は南北約60m、東西20mで西面の一部に土塁が残存し、北に向かっては小さな段が二段あり、三分の一程の広さを占める。主郭の北西部下方に腰郭が二段、また、北側下方に二段の腰郭が付帯し、さらに10m程落ち込み二段の腰郭が設けられ、二の郭と呼ばれている。現在、二の郭下段には諏訪神社の境内になっており、かなりの改変を受け、旧状が分からなくなっている。二の郭の北側は堀切と竪堀で城域を区画している。また、竪堀は主郭西側の下段腰郭の両サイドを区画するように穿たれている。
なお、北麓の実成寺境内は居館があったとされ、現在も「城ヶ平」の小字名や石塁が残っている。

道 案 内
伊豆スカイラインの冷川インターを下りて左折し県道12号線に入る。西に2.6km程行った八幡東交差点で左折し県道59号線に入る。県道59号線を120m程行くと右手に実成寺駐車場があり、道を隔て南側の城山に大見城がある。駐車場から少し先の左手に鳥居があり、ここが登り口で案内板が設置されている。

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居館の石塁        北側の腰郭

 
腰郭の虎口         背後の堀切