狩野城  No22328−01 (かのうじょう)       

B中郭の北方向 B中郭北東側の堀切と空堀

城郭の概要                  
別  名 : 柿木ノ城
所在地 : 伊豆市本柿木
築城年 : 鎌倉時代初期
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、
訪城日 : 平成23年2月5日

歴   史
狩野城は、平安末期に狩野氏の本城として築かれた山城である。
狩野氏は、藤原南家の工藤為憲の孫・維景が駿河守となり、のちに伊豆国狩野荘日向に土着して、狩野氏を称したことに始まる。維景の子・維職は伊豆国押領使に補せられ、要害の地である本柿元に移ったとされ、この頃に狩野城が創築されたものと推測されている。
しかし、狩野氏歴代の事跡は詳らかでないが、平安末期から鎌倉初期に現れる維景五代の孫・茂光と子・親光の活躍が史上に残されている。治承4年(1180)源頼朝の旗揚げに親子共々参画し、股肱の臣として活躍するが、茂光は石橋山合戦で敗北自刃し、生き残った親光は、頼朝の後を追って関東各地を転戦した。その間に狩野城は平家方の大軍に攻められ、老若男女を問わず討たれ落城したと云われる。文治5年(1189)親光も奥州藤原氏攻めで討死し、跡は兄宗茂が継ぎ頼朝の側近に仕え、頼朝亡き後も主流側に立ち、元久2年(1205)畠山重忠の乱、承久3年(1221)承久の乱に出陣、嘉永2年1226)鎌倉竹御所造営の作事奉行に付くなど活躍している。その後の狩野氏の動向は明らかでないが、狩野城を本拠に在地の有力土豪として生き延びていたと思われる。
長禄2年(1458)室町幕府に反旗を翻した鎌倉公方足利成氏に対し、新たな鎌倉公方として派遣された足利政知は、関東に入れず伊豆堀越に留まり、伊豆一国を支配下に置いた。狩野氏はその堀越公方政知の支援者となっていった。
延徳3年(1491)政知が病没し後嗣問題で内紛が生じると、それに付け込み伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆に侵攻し、これに対し狩野道一は堀越公方を継いだ茶々丸を支え、早雲に頑強に抵抗するが、明応7年(1498)遂に戦いに敗れ自害して果てたとされる。
なお、室町時代中頃から絵師として栄えた狩野派の初代狩野正信は維景から十六代の孫である。

構造と感想

狩野城は、東側が狩野川の断崖、北側は柿木川、南側は北沢川に浸食された急斜面の三方を遮断された標高189メートルの丘陵上に築かれた要塞で、狩野川渓谷の入口を制し、伊豆の南北交通路である下田街道も監視できる要衝に位置する。現在は史跡公園として整備されている。
城域は、東西方向の尾根とその中央から南に張り出すT字状の尾根に展開している。中央から南へ伸びる尾根にB中郭があり、南北に長く、南西隅にやや広い櫓台(C南郭)の土壇が聳え、それから延びた土塁が西側から北側を廻り、南西側には腰郭が付帯しいる。B中郭の四周は、鋭い堀切が至る所に入れられ厳重に防御されており、この郭が主郭であろう。
西尾根はB中郭と堀切を隔て、土塁に囲繞されたD本郭、二重堀切、馬蹄形に土塁が廻るE西郭、西端堀切と連続している。東尾根はB中郭と堀切を隔て、馬蹄形に土塁が廻るA東郭、幅の広い空堀、出丸と続く。出丸から東に「ハ」字に延びる支尾根は、頂部が50m程土塁状に削り出されている。何の役割があるのか?南西へ谷を少し下りると湿った窪地がありF水の手である
この城の堀切はどれも深くて鋭く、しかも明瞭に残っており一番の見所である。


道 案 内
修善寺インターを下りて国道136号を南下し4.2km程で狩野川に合流する柿木川を渡る。渡ったところに案内看板が出ている。この案内に沿って右折し西に入っていくと城跡駐車場がある。良く整備された遊歩道が城跡をめぐっている。

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           現地の案内図      B中郭北側土塁上の城址碑

 
C南郭(櫓台)             D本郭の西方向


 B中郭東側の二重堀切