修善寺城  No22322−01 (しゅぜんじじょう)       

北三段目の郭 主郭

城郭の概要                  
別  名 : 立野城
所在地 : 伊豆市本立野
築城年 : 康安元年・正平16年(1361)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、竪堀、石垣、井戸
訪城日 : 平成23年2月6日

歴   史

修善寺城は、康安元年(正平16年(1361))畠山国清によって築かれたと云われる。
畠山国清は、足利尊氏に従い室町幕府創立や南朝との戦いで活躍し、和泉国および紀伊国の守護となり、後に河内の守護にも任命され、畿内に勢力を広げた。足利家内紛の観応の擾乱では当初は尊氏の弟・足利直義に属したが、尊氏派で奥州管領であった畠山家嫡流の高国・国氏父子が討死した後まもなく尊氏派に鞍替えし、武蔵野合戦に尊氏派として参戦している。
文和2年(正平8年(1353))畠山国清は空席となっていた鎌倉公方足利基氏を補佐する関東執事(のち管領)に任命され、伊豆国守護となった。同年、鎌倉府を武蔵国入間郡入間川に移し(入間川御陣)、遠縁である秩父氏ら武蔵平一揆を率い、武蔵国守護にもなり権勢を振るった。
延文4年(正平14年(1359))国清は2代将軍足利義詮の援軍要請を受け、関東武士を率いて上洛し南朝方と戦ったが、軍勢の中から無断帰国する者が多く出て、関東に戻った国清は無断帰国者たちの所領を没収した。これを不服とする者たちから基氏に対して国清罷免の訴えが出され、康安元年(正平16年(1361)11月国清は失脚し、国清は弟の義深・義熈をはじめ一族郎党五百騎余を引きつれ、かつて守護職であった伊豆国へ逃れ、基氏に反旗を翻した。
修善寺城を本拠として、その北方2km余の狩野川西岸に金山城、さらにそこから峰続きに西北方2km程の所に三津城を築き、二人の弟をそれぞれに配した。これに対して基氏は、常陸国の武士団「平一揆」の軍勢三百余騎を差し向けたが、土豪葛山氏との間に兵糧や人夫挑発について争いが生じ、その隙を突いた畠山軍の攻撃によって総崩れとなった。
これに驚いた基氏は、関八州の兵を集め安保泰規、波多野高道、岩松直国らを将として再び伊豆へ攻め入った。この時、畠山氏が頼みとしていた狩野氏をはじめとする国人土豪たちの助力が得られず、これによって畠山氏は三津城と金山城を自ら焼き払い本城である修善寺城に兵を集めて足利軍を迎え撃ったが、10ヶ月におよぶ籠城戦の末、兵糧が尽き貞治元年(正平17年(1362))9月降服、開城した。
その後の国清の消息は定かではなく、降伏時に斬殺されたとも流浪の末に大和で窮死したとも云われる。「津川本畠山系図」は貞治元年(正平17年(1362))、畠山家記は貞治3年(正平19年(1364))に没したと伝えている。
国清の失脚によって畠山氏は没落したが、後に弟の義深が義詮に許されて越前守護に任命され、以降の畠山氏の嫡流は義深の系統に移った。


構造と感想

修善寺城は、北流する狩野川に南西より桂川が合流する間に聳える標高248mの城山山頂に築かれている。
現在の修善寺城のある城山は、無線中継施設やロープウェイ駅の跡地などで改変を受けた部分もあるが、おおむね山城の原形を留めている。
構造は、中央頂部に主郭を置き、北と南に延びる尾根筋に階段状に郭を連ねている。主郭の南や北面には石垣が積まれ、井戸跡も残っている。主郭の北側に二段の腰郭、さらに段郭があって堀切となる。その先は細尾根が50m続いて小ピークとなり物見台となっている。小ピークの北側は二段の腰郭があって、急傾斜で落ち込む。主郭南側は、大きく落ち込み帯郭、その下に堂宇の建ち土塁が廻る南郭、、その先は4段程の段郭が続き急斜面で降下している。
堀切や竪堀、土塁などが少なく、時代の古さを感じる城跡である。


道 案 内
修善寺道路の修善寺インターを下りた修善寺IC交差点で左折し国道136号に入る。国道136号を南に720m程行ったY字路を左手に入り、また80m程先のY字路を左手に進む。190m程行った修善寺東小学校の南西角で左折し小学校沿いに70m程進み左折してコンクリートの細い坂道に入る。細い坂道を190m上った正面が城山神社で登城口がある。神社に駐車場があり、遊歩道が整備され、途中の「畠山国清古戦場」案内に従い15分程で主郭に至る。

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主郭の石垣        北一段目の石垣
 
井戸跡           城戸口