広瀬城 No21622−01 | (ひろせじょう) |
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三の丸の畝状空堀群 | 三の丸の連続竪堀 |
◆ 城郭の概要 |
別 名 : 田中城 |
所在地 : 吉城郡国府町名張 |
築城年 : 戦国期 |
形 式 : 山城 |
遺 構 : 堀切、竪堀、横堀、土塁、畝状空堀群、石積 |
訪城日 : 平成23年9月23日 |
◆ 歴 史 |
築城年代は定かでないが、天文(1532〜55)の頃に広瀬左近将監利治が広瀬の山崎城から瓜巣に高堂城を築き移った際に、広瀬城も築いたと云われている。家臣の田中与左衛門にこれを守らせたことから別名を田中城と呼ばれる。 広瀬氏は、まじめ南飛騨より北に勢力を拡大する三木氏と協力していたが、後に武田氏に通じて三木氏と対立するようになるが、天正10年(1582)武田氏が織田信長によって滅ぼされると、翌天正11年(1583)広瀬氏は三木自綱に攻められ、高堂城と広瀬城は落城し、城主広瀬宗城は討死した。 その後、自綱は家督を二男秀綱に譲り隠居して高堂城と広瀬城を居城とした。 広瀬宗城の子で兵庫頭宗直は飛騨を脱して越前国大野城主の金森長近の元に身を寄せていたが、天正13年(1585)羽柴秀吉の命により金森長近が飛騨へ侵攻すると、先導役として活躍し、高堂城・広瀬城に籠もっる自綱を降伏させている。 しかし、同年に宗直は処遇を巡って長近と争い追放され、広瀬城も廃城になったと考えらている。 |
◆ 構造と感想 |
広瀬城は、古川盆地の南からの入口に位置し、宮川南岸に西の山塊から東へ張り出した尾根上に築かれている。広瀬氏の居城である高堂城とは尾根続きで2km東にあり、出城にあたる。 |
◆ 道 案 内 |
高山市内より国道41号を飛騨市方面に北進し、国府町の名張交差点で左折する。270m程先で県道471号線に突き当り左折し、40m程先の右手道沿いに広瀬城の案内板がある。そこより山側に向かって入り、道なりに320m程進むと文化財保護センターに至り、センター事務所と倉庫の間にある小道から入り、山道を登ると城跡に至る。 |
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![]() ![]() 二の丸北尾根の堀切 主郭西側の堀切 |