広瀬城  No21622−01 (ひろせじょう)       

三の丸の畝状空堀群 三の丸の連続竪堀

城郭の概要                  
別  名 : 田中城
所在地 : 吉城郡国府町名張
築城年 : 戦国期 
形  式 : 山城
遺  構 : 堀切、竪堀、横堀、土塁、畝状空堀群、石積 
訪城日 : 平成23年9月23日

歴   史
築城年代は定かでないが、天文(1532〜55)の頃に広瀬左近将監利治が広瀬の山崎城から瓜巣に高堂城を築き移った際に、広瀬城も築いたと云われている。家臣の田中与左衛門にこれを守らせたことから別名を田中城と呼ばれる。
広瀬氏は、まじめ南飛騨より北に勢力を拡大する三木氏と協力していたが、後に武田氏に通じて三木氏と対立するようになるが、天正10年(1582)武田氏が織田信長によって滅ぼされると、翌天正11年(1583)広瀬氏は三木自綱に攻められ、高堂城と広瀬城は落城し、城主広瀬宗城は討死した。
その後、自綱は家督を二男秀綱に譲り隠居して高堂城と広瀬城を居城とした。
広瀬宗城の子で兵庫頭宗直は飛騨を脱して越前国大野城主の金森長近の元に身を寄せていたが、天正13年(1585)羽柴秀吉の命により金森長近が飛騨へ侵攻すると、先導役として活躍し、高堂城・広瀬城に籠もっる自綱を降伏させている。
しかし、同年に宗直は処遇を巡って長近と争い追放され、広瀬城も廃城になったと考えらている。

構造と感想

広瀬城は、古川盆地の南からの入口に位置し、宮川南岸に西の山塊から東へ張り出した尾根上に築かれている。広瀬氏の居城である高堂城とは尾根続きで2km東にあり、出城にあたる。
構造は、東西に延びる尾根の先端部のピークに主郭を置き、その東に二の郭、西に三の郭(北への張り出し部を馬場と呼ぶ。)を配した大規模な中世山城である。南側と東側斜面は急峻な天然の要害で、防御施設は尾根続きの西側と緩斜面の北側に集中しており、当城の一番の見所になっている。
主郭の北直下に城洞と呼ばれる谷筋があり、この中を北麓から大手道がのぼってくる。谷の東側支尾根には二本の堀切が、西側支尾根には竪堀と馬場の北端に二重横堀が入れられており、侵入者は谷奥で南東と南西の上方に階段状に設けられた小郭群へと進まざるを得ないが、南西は袋小路で三の郭の馬場と主郭から攻撃を受ける。南東に上ると主郭と二の郭間の鞍部に到達するが、二の郭や主郭から横矢攻撃を長時間受けることになる。谷サイドの支尾根を回り込んだとしても二の郭の北面や三の郭の北面から西面にかけて畝状空堀群をこれでもかと云うほど入れて、敵の横移動を封じており、その光景は圧巻である。
遺存する遺構は、とてもシャープで400年以上と云う時の流れを感じさせない形を今も留めている。草刈り等の手入れもなされており、おすすめの山城である。


道 案 内
高山市内より国道41号を飛騨市方面に北進し、国府町の名張交差点で左折する。270m程先で県道471号線に突き当り左折し、40m程先の右手道沿いに広瀬城の案内板がある。そこより山側に向かって入り、道なりに320m程進むと文化財保護センターに至り、センター事務所と倉庫の間にある小道から入り、山道を登ると城跡に至る。

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二の丸北尾根の堀切      主郭西側の堀切