美濃・顔戸城  No21521−01 (みの・ごうどじょう)       

北側の堀 北側の土塁

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 可児郡御嵩町顔戸字構
築城年 : 応仁〜文明年間(1467〜77)
形  式 : 平城
遺  構 : 土塁、横堀、土橋、虎口
訪城日 : 平成28年11月4日

歴   史

応仁年間(1467〜77)頃に斎藤妙椿によって築かれたと云われる。
斎藤妙椿は美濃国守護代斎藤宗円の子で出家して八百津の浄土宗善恵寺で修行していたが、長禄4年(1460)兄利永が死去したため還俗し守護代に就いた。応仁の乱では西軍に属し活躍した有名な武将である。一方、和歌を好む文化人でもあった。
応仁2年(1468)東軍に属した東氏の篠脇城を攻め落としたとき、関東に出陣していた九代東常縁はこれを伝え聞いて詠んだ和歌が人づてに妙椿に伝わり、贈歌十首と引換えに所領を返そうと約束する。東常縁が「吾世経むしるへと今も頼む哉、みののお山の松の千歳を」をはじめする十首の和歌を贈ると、妙椿は約束通り所領を全て返還したと『鎌倉大草紙』に記されている。


構造と感想
顔戸城は、可児川北岸の河岸段丘上に築かれた矩形の単郭城郭で、その規模は東西約150m、南北約167mに達し、南を除いた地続きの三方を大規模な空堀と土塁で囲繞し、内側に館を構えた平坦面が広がっている。道に面した南側と北北側に平入り虎口を開いている。遺構の残りも良く中世平城の姿を今に伝え「構」と呼ばれ、東美濃でも有数の平城として、その名を馳せているそうである。
城内は民家と畑地となっており、東側から北側の土塁や堀は竹林などに覆われ見透しが悪いが、高さ、巾、深さのある土塁や堀を確認することができる。

道 案 内
東海環状自動車道の可児御嵩インターを下りて国道21号バイパスの東方向に入り。1.4km程東進した古屋敷交差点で左折し、県道83号線に入り北に進む。650m程北上し名鉄広見線の踏切を渡り、160m程先の大庭交差点で左折し国道21号の旧道に入る。西に780m程先の右手に橋が架かる十字路で右折し、少し入ると左手に説明石碑がある。その背後が城跡である。

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現地の縄張り図             北側の虎口と土橋