雁田城  No20541-01 (かりたじょう)       

主郭東方向 主郭北東隅の石垣

城郭の概要                  
別  名 : 苅田古城、雁田大城(古城)
所在地 : 上高井郡小布施町雁田(岩松院の裏山)
築城年 :
形  式 : 山城
遺  構 : 石垣、堀切、竪堀、虎口、
訪城日 : 平成26年10月27日

歴   史
雁田小城(物見城)と一体で苅田城と呼ばれる。東西30間半(約55m)、南北15間(約27m)、周囲には空堀や用水を引いた樋跡が見られる。
築城年代、位置、名称等解明されていない部分も多く、伝説に満ちた謎の城と云える。古くはアイヌ人の城「チヤシ」或いは大和朝廷の東征時(3〜4世紀)に作られた柵と云う。また、東條庄狩田郷の領守職苅田式部太夫繁雅(元暦元年、1184年の文献あり)の居城と伝えられる。室町時代の貞治6年(1367)萩野備後守常倫が築いた二十端城は、この苅田城を含んだものとも云われる。
史実からすると、豪族高梨氏との関りが深く、延徳元年(1489)以降はその支配下にあり、永禄4年(1561)武田信玄が高井地方を支配下とするまでの間、苅田城、二十端城、滝ノ入城等は、高梨氏支配地の南部における防衛線であったと推察される。
その後、この地を領した武田氏、武田氏滅亡後は上杉氏により改修が重ねられ、今日の姿になったと推測されている。
現在、南西麓に建つ岩松院は室町時代後期の開基で、それ以前は境内に土豪の居館があり、雁田城はその詰め城であったと云われる。
寺院裏の墓地には広島50万石を改易され当地に左遷された戦国武将福島正則の廟所、信州を愛した俳人一茶の句碑が立つ古池がある。本堂大広間の天井には、葛飾北斎が描いた「八方にらみ鳳凰図」が150年を経た今日も鮮やかな光彩を放っている。

構造と感想
雁田城は、善光寺の北東方、千曲川対岸の東部山地と呼ばれる雁田山(759m)より東に続く山地の中の千僧坊の峯から西へ派生した巨岩が露出し、至る所に断崖絶壁が形成された尾根上に築かれており、加えて谷側も峻険で巨岩が至る所に露出し、一つ二つのルート以外は人が寄り付けない要害地形である。
大城は、雁田山から北西に延びる支尾根のピーク(標高533m、比高180m)に築かれた山城で、西端に主郭を置き、東側の尾根筋に堀切で区画した二の郭、三の郭、四の郭を配した連郭式縄張りである。岩松院の北側から小城を経て尾根を登るのが大手道で、背後の鞍部から沢を下って岩松院へもどる道が搦手と推測されている。
主郭は西側に一段低い副郭を伴い、側面には石積みが見られる。東辺には土塁が付帯し、その西と東側に堀切が入れられ、主郭南東下の小郭から堀中に降って背後部へ通じる。二の郭も東辺に低い土塁があり、ここにも石積みが見られる。その東側は大小4本の堀切が連続し、三の郭になる。この郭の東辺にも土塁があり、堀切を経て四の郭で、東辺に露岩があり、その先は鞍部へと下っている。この間は約150mで、幅が20m程である。
小城は、大城と同じ支尾根の標高450m、比高105mの位置に築かれた物見台、前衛陣地と思われる。広さ18m×11mの郭の西面と南面に高さ1m程の石垣を3段に重ねて積み上げ、南面の石段を登り郭内に入る。東側背後は石垣造りの巾4m程の堀切が設けられている。郭から下る尾根には3本の堀切があり、最下の堀切の上には石積みの門跡が残っているようである。
雁田城の築かれた地山の景色、多用された石積みの景観は独特な雰囲気が感じられ、一見の価値がある。しかし、小城から大城間の尾根筋は岩盤が至る所にそそり立つ険しい危険を伴う登り道であり、十分注意して体力のある間に訪城した方が良い。

道 案 内
上信越自動車道の小布施スマートインターを降りた所の信号を左折し県道343号線に入る。北に1.3km程行った小布施橋南交差点で右折し県道66号線に入る。東に1.9km程行った松川橋北交差点を左折し国道403号に入る。北に7.3m程行った中町交差点で右折し、東に880m程進んだ中町中央交差点を直進して110m程先で右折する。620m程東進すると「岩松寺」に突き当たる。岩松寺参拝者用無料駐車場に駐車させていただき、岩松院裏の福島正則霊廟の北方に登城口がある。

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西端の堀切                    副郭にある主郭への虎口か


二の郭の土塁                4条の堀切

 尾根の岩場


小城の南西隅部                       小城の郭の東方向


小城南面の石段                  小城背後の石積みの堀切