田口城  No20301-06 (たぐちじょう)       

主郭の南方向(奥が上段) 二郭より主郭西面を望む

城郭の概要                  
別  名 : 田ノ口城
所在地 : 佐久市臼田町田口字城山
築城年 : 室町時代末期
形  式 : 山城
遺  構 : 堀切、横堀、土塁、石垣、虎口、
訪城日 : 平成27年4月19日

歴   史
田口城は、この地の豪族・田口氏によって室町時代末期に築かれたと考えられている。田口氏に関する詳細は分かっていないが、伴野氏や平賀氏とともに佐久郡南部にかなりの勢力をもっていたようである。
しかし、天文年間(1532〜55)武田晴信(のちの信玄)の佐久侵攻により田口城は陥落し、武田氏の支配するところとなった。
天文17年(1548)晴信は北信濃最大勢力を誇る村上義清と上田原で合戦に及んだが、板垣信方・甘利虎泰・初鹿野伝右衛門・才間河内守ら名だたる武将を討ち取られる大敗北を喫した。この敗北の混乱に乗じて田口城を追われていた田口長能は田口城の奪還に成功したが、塩尻峠の戦いで小笠原長時に勝利した晴信は小山田信有を大将とし田口城を攻め、田口長能を討ち取った。
その後、武田氏に臣従していた相木(依田)能登守が田口城主となったが、天正10年(1582)武田氏が滅亡し、武田氏を滅ぼした織田信長も本能寺の変に斃れると、この地には北条氏が進出した。
これに対し、徳川家康は依田信蕃を帰国させ、佐久の攻略を行わせた。この中で田口城は陥落し、(相木)依田能登守は北条氏を頼って落ち延びたと云う。
翌天正11年(1583)信蕃は、岩尾城攻撃の際に弟とともに戦死したため、子・竹福丸が父の戦功により「松平」の名字と「康」の一字を与えられて松平康国と名乗り、小諸10万石の大名となった。

構造と感想
田口城は、吉沢川と雨川の間に関東山地から西に延びてきた山稜の先端部 標高881m、比高150mに築かれ山城で、龍岡城の北東500mに位置している。
城の西側から南側は高さ10〜15mの岩壁が取り巻き、山上は比較的傾斜の緩い北西への斜面となっており、そこに階段状に多数の郭が構えられた巨大な山城である。
南東隅の頂部に主郭を置き、東側の背後となる尾根続きを三条の堀切で遮断し、西へ400m、北へ250mにわたり幾段もの郭を連ねた構造をしている。郭は切岸のみで区画され、土塁は伴っておらず、北側も切岸のみの単純な造りであるが、各所の切岸には石垣や石積みが施されている。
なお、田口城から眼下に星形の龍岡城を一望することができる。

道 案 内
中部横断道の佐久臼田インターを降りて県道121号線の下小田切バイパスの北東方向に入る。バイパスを北東に1.1km程行くと国道141号に突き当たる。そこで左折し国道を北に250m程行くと城山北交差点に至り右折する。東に820行くと臼田駅前に至り、駅前の信号で左折し500m道なりに東進する。県道2号線とのT字路を直進方向に進み、160m程先の三分交差点で左手の県道120号線に入る。県道120号線を道なりに1.3km程北東に行き変則交差点で右折し細い道に入る。細い道を南東に600m程行くとY字路があり右手に進み、460m程行った所で右に鋭角に曲がる。後は林道を道なりに終点まで行くと小屋がある。右手側が城跡でる。終点にに駐車スペースがある。

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   主郭上段への通路      四郭北側の石列(奥は二郭)

 
堀切のクランク状土塁       最内の堀切