岩尾城  No20217-18 (いわおじょう)       

本郭の西方向 本郭西側の空堀

城郭の概要                  
別  名 : 琵琶島城、藤ガ城、藤ヶ城
所在地 : 佐久市鳴瀬字宮前  
築城年 : 文明11年(1479)
形  式 : 平山城
遺  構 : 堀、土塁、石積み、
訪城日 : 平成29年11月18日

歴   史
岩尾城は、文明11年(1479)に清和源氏小笠原流大井氏の支族である長土呂大井氏の大井行春の次男で岩尾の地を分知された大井行俊が長土呂から移り、築城したと云われている。以後、行満・行真・行頼・行吉と5代に亘って居城とした。
延徳元年(1489)甲斐の武田信昌が佐久に侵攻し、岩尾城は焼き討ちされたが、二代・行満はこれを退けている。
天文12年(1543)諏訪を制圧した武田晴信(のちの信玄)は、佐久に侵攻して諸城を攻めたが、この時四代・行頼は相木市兵衛の勧告に従い自ら開城したと伝えられ、晴信は天文14年(1545)岩尾城代に真田幸隆を任じている。
天文20年(1551)行頼は晴信に臣従し若神子に出仕するなど軍役を担い、岩尾城もこの頃 武田氏の手によって改修され、さらに天正6年(1578)には武田勝頼が城の修復を命じており、岩尾城は佐久に於ける武田氏の重要な戦略拠点となった。
五代・行吉も武田氏の軍役を担い、永禄元年(1558)の川中島の戦、翌2年の今川氏との薩睡峠の戦や興津の戦などに参陣、元亀3年(1572)には上野国箕輪城の守備に配されている。
天正10年(1582)武田氏が滅亡し、織田信長も本能寺に斃れると、後北条氏が佐久に進出し、行吉はこれに与した。一方、徳田家康も麾下の春日城主・依田信蕃を佐久に帰国させ、信蕃は同年11月までに十に余る城を陥し、残るは大道寺政秀の拠る小諸城と北条氏に従った岩尾城だけとなった。天正11年(1583)2月21日信蕃は勢いに乗じて岩尾城へ総攻撃をかけたが落とせず、同月23日自ら陣頭に立って城に攻め込んだところ、鉄砲で狙撃され弟・信幸と共に討死してしまった。
しかし、城方は次第に形勢不利となり、行吉は徳川の軍監・柴田康忠の勧告に従い3月7日に開城し、上野国保渡田に蟄居した。こうして岩尾城は築城より106年後に廃城となった。

構造と感想
岩尾城は、千曲川と湯川の合流点の東側に横たわる細長い丘陵上に築かれた平山城である。城跡には、築城時に勧進されたと云う、伊豆・箱根・三島神社が現在も鎮座している。
北と南の側面は河川の浸食による断崖で、東側が台地続きで大手とされる。
構造は、頂部に本郭が置かれ、西側に西郭があり、東側に二の郭、三の郭が連なり、三の郭東側で急斜面で落ち込み、その下に空堀と丸馬出が設けられ、さらに広大な大手台郭と大手郭が続く、連郭式の配置である。
本郭は西側を空堀、東側を土塁で区画され、二の郭の東側は切岸で一段落ち込み三の郭となる。三の郭の東側は大きな切岸で落ち込み、空堀で南端の部分が残存する。その東側に丸馬出が構えられていたようで、三日月堀跡の標柱が立つが旧状を留めていない。大手台郭と大手郭も間の土塁が微かに残る程度である。また、主郭から西側は雑木林で荒れている。

道 案 内
中部横断道の佐久中佐都インターを降りたT字路を左折し北に120m程行くと佐久中佐都I.C北交差点に至る。そこで左折し県道154号線に入り、西に1.2km程行くと信号交差点があり、県道は右折となるが、そこで左折し730m程南下すると湯川を渡る。湯川を渡った最初の高瀬小西交差点で右折し、県道103号線に入る。280m程西進すると西岩尾交差点に至り、そこで右折し県道78号線に入る。道なりに340m程西に進むと湯川に架かる橋に至る。橋の手前で左にUターンするように曲ると直ぐに消防器具倉庫と憩いの家があり、そこに停めさせていただく。集落内を東に140m程行き右手にアパートのある所で右に入る。細い道を80m程進むと目前に小高い丘があり、伊豆・箱根・三島神社が鎮座している。そこが城跡である。

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   説明板の絵図          落合城より望む

 
本郭側面の石積み        本郭東側の土塁
 
 
大手台郭の西方向       大手台郭の東側土塁

 
三の郭下の空堀         丸馬出し跡