駒形城  No20217-16 (こまがたじょう)       

南より望む 北西隅の土塁

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 佐久市塚原字新城
築城年 : 不明
形  式 : 平城(崖淵城)
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀
訪城日 : 平成27年4月18日

歴   史
駒形城の築城年代や築城者などの詳細は史料がなく不明である。
城跡に重要文化財の駒形神社が建てられており、駒形神社は文明18年(1486)に耳取大井氏の耳取城主・大井政継によって再興されたと伝えられている。政継は、平賀城主・大井玄信(「号」で「諱」が伝わらない)の孫とされ、耳取城を攻め取って耳取大井氏を興したとされる。
しかし、耳取大井氏は大井光長の四男行氏が、13世紀後半頃に耳取に館を構えたことに始まるとされる。玄信は光長の三男行光の子孫とされ、政継が耳取大井氏を称するに至った経緯については詳らかでない。
政継の後は政成が継ぎ、信玄・勝頼に仕えたが、天正10年(1582)武田氏滅亡後の天正壬午の乱において徳川家康に降り、天正18年(1590)の家康の関東移封に従って、上野国藤岡へ移っている。このときまでに駒形城は廃されていたと考えられている。
なお、駒形神社が牧場に関連することから、同一台地上で私牧を経営していた道本城の根井氏との関連も指摘される。

構造と感想
駒形城は、下塚原地区の台地が千曲川畔の塩名田へ下る崖縁を利用して築かれている。
台地の縁辺部が千曲川支流とそのまた支流の浸食によって突出した小規模な舌状地形となった付け根を一条の堀切と土塁で遮断している。土塁は北西隅にも残っており、往時は全周を廻っていたのであろう。また、地形から見て、かつては東側にもう一条は堀切があったと推測されている。北、西、南側の断崖中腹には帯郭のような平場が取り巻いているが、当時はなかったと見られている。
大井氏領の西端部に位置しており、領地の守護 や 支流を挟んだ南側の川沿いに旧中山道が東西に走っており、街道監視の役割を担っていたと思われる。

道 案 内
中部横断道の佐久中佐都インターを降りたT字路を左折し北に120m程行くと佐久中佐都I.C北交差点に至る。そこで左折し県道154号線に入り、西に1.2km程行くと信号交差点があり、県道は右折となる。右折してそのまま県道を北に410m程行くと、今度は県道は左折となる。左折して川沿いの県道を道なりに西に680m程行くと右手に駒形神社があり、そこが城跡である。

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南東隅の土塁          東側の堀切

 
東側堀切の南竪堀          斜面の石垣痕


切岸と河川