平尾城  No20217-14 (ひらおじょう)       

主郭の西方向 主郭南東隅の石垣

城郭の概要                  
別  名 : 山古城
所在地 : 佐久市上平尾字城
築城年 : 永正年間(1504〜21)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、竪堀、堀切、石垣、虎口、
訪城日 : 平成27年4月19日

歴   史
平尾城は、永正年間(1504〜21)に平尾信守によって築かれたと云われる。
平尾氏は、宝徳・享徳(1449〜55)の頃に佐久の大井氏と争って敗れ、大井氏に降った小県郡の依田氏一族の為泰が上平尾に移り平尾氏を名乗り、館(白岩城)を構えたことに始まる。
文明16年(1484)大井氏宗家が村上政清に攻められ滅ばされると、第三代・平尾信守は自立し、白岩城の詰め城として平尾城を築いたとされる。
天文9年(1540)甲斐の武田氏が佐久へ侵攻し、大半の諸城はこれに降ったが、志賀城主・笠原清繁と内山城主・大井貞清は徹底抗戦の構えを示しており、天文15年(1546年)家督を継いだ武田晴信(のちの信玄)は再び佐久へと侵攻した。この時、平賀為信の弟為守は志賀城に加勢し、天文17年(1548)武田氏が上田原合戦で村上義清に敗れると佐久の諸豪族は武田氏に叛旗を翻し、平尾氏もこれに加わったが、晴信の佐久平定が進むと平尾為信も晴信に降伏した。
天正10年(1582)武田氏が織田信長に滅ぼされ、その直後に織田信長も本能寺の変に倒れると、上野より北条氏が佐久に侵攻、諸城は降ったが、徳川家康が北条氏に対峙し、戦は膠着状態となり、北条氏は家康と和議を結び関東へ戻った。佐久の諸城は家康麾下の春日城主・依田信蕃によって平定された。
平尾氏は五代平尾守芳のとき、小諸城主となった松平(依田)康国に仕えたが、天正18年(1590)松平康勝が上野の藤岡へ転封となり、平尾氏も当地を離れ、廃城となった。

構造と感想

平尾城は、平尾富士の西側に聳える標高1065mの秋葉山から西に延びる尾根の標高951m、比高208mのピークに築かれ山城である。
構造は、西端のピークに土塁を廻らした主郭が置かれ、東側一段下がって二郭が連なる。二郭東側は二郭側に土塁を伴った堀切が入れられている。その堀切の東側が三郭で南面に土塁を伴っている。三郭の東側に僅かに高い四郭が続く。四郭は二段からなり、東の部分が一段高く、北と東面に土塁を廻らしている。四郭の東は尾根続きで三本の堀切を入れ、遮断している。南側斜面には何段もの帯郭が910m付近まで設けられている。
主郭の北西に支尾根が延びており、この尾根筋が大手とされ、多数の段郭が続き、標高865m前後に二本の堀切を入れている。南西にも支尾根が延び、堀切、岩場、二段の段郭、堀切、三段の段郭、岩場と連なり、この岩場に二本の堀切を入れ遮断している。
背後の林道から山に入ると直ぐに堀切があり城域とる訪れ易い山城で、高低差がやや小さく迫力に乏しいが、遺構は概ね残存しており、一部には石垣も残っている。


道 案 内
登り口

上信越自動車道の佐久インターを降りた佐久I.C入口交差点を左折し、230m先の佐久I.C東交差点を直進する。道なりに420m程東進し、橋手前の十字路を右折する。道なりに1.1km程東進した一本松交差点を直進し、620m程先で上信越道を潜り右にカーブする。410m程東進すると道は左にカーブし平尾山公園の北側外周を回り、隧道の手前200m程の所に左手へ分岐する林道があり、そちらに進むと200m程先でゲートがある。そこで駐車し、林道を先へ5分程歩いて、右カーブの左手に電柱とカーブミラーがあり、その電柱の手前が登城口である。


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東端堀切の竪堀         四郭東側の堀切

 
二・三郭間の堀切と三郭東方向          三郭南東隅の虎口

 
東の尾根より四郭を望む