大井城  No20217-13 (おおいじょう)       

王城の大ケヤキ 王城東側の土塁?

城郭の概要                  
別  名 : 岩村田館
所在地 : 佐久市岩村田字荒宿
築城年 : 鎌倉時代
形  式 : 平山城(崖端城)
遺  構 : 堀、堀切、土塁、櫓台
訪城日 : 平成29年11月18日

歴   史

大井城は、清和源氏小笠原長清の七男で清和源氏小笠原流大井氏の祖となった大井朝光が承久3年(1221)承久の変に際して、幕府軍に加わり宇治川の合戦で功を挙げ、大井庄地頭職を賜り、この地に居を構えたことに始まる。
朝光の子・光長には七人の男子がおり、三男・行光が光長の跡を継ぎ、七男を除く他の兄弟は佐久郡内に各々館を構え、また、弘安8年(1285)には鎌倉で「霜月の乱」が起こり、隣接する伴野庄地頭で小笠原惣領家であった伴野氏が誅滅にあい、以後、大井氏が勢力を伸長させた。
建武2年(1335)後醍醐天皇から足利尊氏討伐の命を受けた新田義貞が東海道と東山道に大軍を発し、東山道軍が佐久へ侵攻し大井城を包囲したため、尊氏方は信濃守護・小笠原貞宗、信濃惣大将・村上信貞を大井城の救援にあたらせたが落城した。
その後、大井氏は次第に勢力を盛り返し、特に永享10年(1438)永享の乱で幕府軍に敗れ自害させられた鎌倉公方・足利持氏の遺児・永寿王丸を大井持光が安原の安養寺にかくまい、その遺児が宝徳元年(1449)関東管領(足利成氏・古河公方)になったことなどがあって、大井氏は全盛期を迎えた。
しかし、文明11年(1479)隣荘の伴野氏と争いで大敗、さ らに同16年(1484)村上政清に攻められ、岩村田のまち共に大井城も焼失落城し、大井氏の嫡流は滅亡した。城は後に支族が再興し、天文20年(1551)武田信玄の上野や北信濃攻めに利用されたが、 武田氏滅亡のあと天正10年(1582)11月徳川家康麾下の春日城主・依田信蕃に攻略され廃城にな ったと云われる。


構造と感想

岩村田市街地の北東部の湯川の浸食で出来た断崖上に、北から北から石並城(いせならびじょう)、王城、黒岩城の3城が並んでいて、この3城を総称して大井城または岩村田館と呼んでいる。
城の東側は断崖で、西側は円満寺西の南北方向の田切りも利用し、堀を設け市街地と区画していた。
現在は、湯川沿いの南北700m、東西100m程の台地を中心に遺構が残る。この台地を東西方向の深い堀切で分割し、北側の石並城(いせならびじょう)は南北200m、東西80mの台地を堀と堀切が囲んでいる。3城で最も古いとされる。中央が王城で南北100m、東西100mの高台で、四周は比高20m程の崖となっており、東隅の大ケヤキ付近が一段高く土塁か櫓台であったと思われている。大井氏最盛期の居館跡とされる。南側が黒岩城で王城の南に続く高台上にあり、広さは王城より幾分広い。南の部分が失われているが、大井氏の末期の中心になった所とされる。
なお、これら3城はほぼ単郭であり、主郭は時代により移動しているが、3城には何らかの城郭施設が置かれ、一体で機能したものと考えられている。
いずれの郭内も公園や耕作地等に利用され、城郭らしい面影に乏しいい。また、台地以外の城域は住宅地となり消失著しい。


道 案 内
上信越自動車道の佐久インターを降りた佐久I.C入口交差点を左折し、230m先の佐久I.C東交差点を左折し県道9号線に入る。県道9号線を1.1km程南下した岩村田交差点を左折し、東に300m程行った左手の高台が城跡である。周辺は道も狭く駐車場もないので、北西280m程の所にある龍雲寺さん停めさせて頂いた。

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現地表示の絵図     石並城と王城間の堀切

 
石並城の東側断崖を望む         石並城西側の堀跡

 
石並城の南方向             石並城の区画の堀跡

 
王城より黒岩城を望む       黒岩城の東側の断崖