岩村田城  No20217-12 (いわむらだじょう)       

火薬庫跡 北面中央の天守台跡

城郭の概要                  
別  名 : 上の城、藤ヶ城
所在地 : 佐久市岩村田字上ノ城
築城年 : 文久元年(1858)
形  式 : 崖淵城
遺  構 : 土塁、堀、石垣
訪城日 : 平成29年11月18日

歴   史

岩村田城は、元禄16年(1703)武蔵国赤沼から1万6千石で入部した内藤正友によって陣屋が築かれたのが始まりとされる。正友は入部した年の10月に大坂常番を命ぜられ、所領は佐久郡に6千石余を残して1万石は摂津・河内に移された。正友の跡を継いだ正敬は正徳元年(1711)佐久郡に再び1万6千石を与えられて岩村田に入封し定着した。
6代正縄は水野忠邦の弟で内藤正国の養子となり、大番頭や伏見奉行を歴任し、安政5年(1858)に城主格に昇格した。昇格は、正縄が老中水野忠邦の実弟であったことや、安政の大獄に貢献したことが理由とされる。
正縄は、元々本町と荒宿との間に置かれていた陣屋が、既に中山道岩村田宿の町家が建ち並んいたため、武家屋敷地を十分に確保できず、家臣達は早くから上の城付近に居住地を求めていたことから、陣屋がを廃して、築城を計画した。孫の7代正誠の時に築城許可がおり、文久元年(1858)に築城を開始し、元治元年(1864)棟上式が行われたが、完成を見ることなく明治を迎え廃城になった。


構造と感想
岩村田城の城域は、大井氏の居館跡と新たに幕府から求めた土地から成り、南北三町、東西四町に及び、西を除く三方は湯川とその支流が取り巻き天然の堀となっている。また、その三方は川により侵食されて崖地となっている。城の西側には、土塁と堀が廻らされていたが、現在はその一部が僅かに残るのみである。
本丸は岩村田小学校敷地で、校地北面に土塁痕が残り、その北側の招魂社が置かれた台状地が天守台とされ、また、東側の空堀を隔てた城址碑が建ち、藤城神社が鎮座する台状地が火薬庫跡とされる。
その他は、宅地化や公園化などによって明確な遺構はほとんど残されていない。

道 案 内
上信越自動車道の佐久インターを降りた佐久I.C入口交差点を左折し、230m先の佐久I.C東交差点を左折し県道9号線に入る。県道9号線を1.8km程南下した岩村田小学校入口バス停手前の十字路を左折し、東に340m程行くと右手に岩村田小学校がある。小学校前が岩村田公園で、この一帯が城跡である。

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天守台西面の土塁            南西端の土塁

 
西面の堀跡              本丸北面の土塁