志賀城  No20217-10 (しがじょう)       

主郭 主郭南西隅の石垣

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 佐久市志賀字城
築城年 : 不明
形  式 : 山城
遺  構 : 石積み、土塁、堀切、竪堀、土橋、虎口
訪城日 : 平成27年4月19日

歴   史

築城年代は定かではないが、戦国時代には笠原清繁が在城していた。
天文9年(1540)甲斐の武田信虎は佐久郡内の十数城を陥落させ、前山城を築き陣を置いた。天文10年(1541)5月には村上義清・諏訪頼重とともに小県郡海野庄の海野棟綱を攻め、これを上野へと放逐した。
しかし、同年6月武田家に内訌が起こり、信虎は嫡男・晴信(後の信玄)によって駿河・今川家に追放され、晴信が武田家の当主に就き、再び信濃攻略を開始した。
天文11年(1542)諏訪を制圧、翌12年(1543)には小県郡に侵攻して長窪城主・大井貞隆を自刃に追いやり、天文12、3年(1543〜44)頃には佐久郡の大半の国人領主を降したが、関東管領・上杉憲政の支援を後ろ盾に志賀城主・笠原清繁と内山城主・大井貞清は徹底抗戦の構えを示した。
天文15年(1546)5月武田勢は内山城を攻略し大井貞清を捕らえたものの、残る志賀城は関東管領配下の上野の菅原城主高田憲頼父子が援軍として入城し、守備を固めていた。天文16年(1547)晴信自ら軍勢を率い志賀城を囲むと、清繁が関東管領・上杉憲政に救援を要請し、憲政は金井秀景を大将とする上州勢を佐久へと派遣した。上州勢は碓氷峠を越え志賀城北方の小田井原(北佐久郡御代田町)に陣を敷いた。これに対し、晴信は志賀城包囲軍から板垣信方・甘利虎泰・横田高松・多田三八らを小田井原に派遣し、迎撃戦に大勝を収めた。援軍の大敗を知った志賀城の籠城兵の士気は下がり、武田軍の総攻めの前に城は陥落、城主笠原清繁をはじめ高田憲頼父子などが討死し、落城により捕虜となった者の処遇は苛烈を極め、男は金山送り、女・子供は売られたと云う。


構造と感想

志賀城は、上信国境に聳える標高1335mの寄石山から志賀川の北側を西に向け延びてきた山稜先端の支尾根上(標高867m、比高140m)に築かれた山城で、佐久から上野へ通じる街道の佐久側入口を押さえる位置にある。
構造は、東西に細長い痩せ尾根のピークに主郭を置き、その西側へ二郭、三郭、四郭と連ねた連郭式で、城域は東西約600mに及ぶ。北と南側側面は岩が露出した断崖で、尾根筋には堀切を幾本も入れた堅固な造りである。
主郭は、東西に細長い郭と東側に土塁と堀を隔て一段高い小郭が配されている。小郭東側の急斜面を降ると側面が断崖となった細尾根が50m程続き、その両端に岩場を穿って堀切を入れ、尾根続きの遮断を図っている。主郭西側の急斜面には3、4段の帯郭が取り巻き、斜面下の鞍部に堀切が入り、二郭がとなる。二郭西面は土塁が築かれ、土塁から下の西斜面と南へ張り出す支尾根に腰郭を構え防備としている。土塁からの西斜面の中程には堀切があり、さらに西斜面の下端に石垣造りの堀切を設けている。この堀切を越えると三郭となり、西面には石垣が積まれている。石垣の下が馬の背状をした四郭で、西側を外側に土塁を伴った堀切で遮断している。
大手は南に張り出した支尾根と思われ、現在の登城ルートとほぼ同じコース想定される。中腹の岩場で道は狭まり、急斜面に石垣で造られた道を登り、腰郭と至っている。
郭の側面は至る所で断崖絶壁となっており、足がすくむ様な箇所が多々あり、細心の注意を払って訪城する必要がある。


道 案 内
登り口
中部横断道の佐久南インターを降りた佐久南IC交差点を左折し国道142号の東方向に入る。1.5km程東進した跡部交差点を直進し国道254号に入り、東に1.1km程走ると野沢本町交差点で、そこを左折する。国道254号の平賀バイパスに入り、東に2.5km程行った佐久総合運動公園南西側のコンビニのある北耕地交差点で左折する。北に道なりに2.6km程行くと家畜改良センター中心部にあるセンター前交差点に至る。そこで右折して1.1km程東進すると県道44号線との新子田交差点に出る。交差点を右折して県道44号線に入り、東に1.8km程行くと左手に「志賀郵便局」ある。そこから更に700m程東進すると左手に「雲興寺」への案内板が出ているので、そちらへ左折し正面の「雲興寺」に向かう。志賀城へはお寺の東側フェンス外側から墓地へと続く道を登っていけば山頂まで道が付いている。

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主郭から小郭を望む               東細尾根の堀切

 
三郭東側の石垣造り堀切          三郭西側の石垣

 
城域への虎口           南支尾根の塹壕状の段郭

 
登城路              登城路に迫る岸壁