西條城  No20215−04 (にしじょうじょう)       

主郭南方向 主郭南背後の堀切

城郭の概要                  
別  名 : 城、城ヶ嶽、塩尻城
所在地 : 塩尻市塩尻町下西条
築城年 :
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀 堀、土塁
訪城日 : 平成28年11月28日

歴   史
『信府統記』の「下西条洞ノ山古城」が西條城にあたり、「下西条村ヨリ午ノ方三十町、本城ノ平 東西十五間、南北十五間、城主 洞伯耆、時代分明知レス」とされている。
信府統記では、飯縄城と嵐城は小笠原氏持とし、西條城は別としているが、この3城は一連のものと見て、伊那方面への連絡の必要と2城の詰めの城と考えるのがよいとされる。
『塩尻町誌』には、「寳徳元年(天安6年)4月29日、諏訪上社と下社が合戦となり、5月10日下宮が敗れ、社殿などを焼かれてしまった。そこで、下宮方は井川(府中)小笠原持長を頼った。
持長が下宮方に協力する事となったことを知った上宮方の大祝 諏訪信満は、持長に対応する為、松尾の小笠原長宗を頼った。これに対して長宗は承諾し兵を整えて府中へ侵入した。
これを聞いた(府中)小笠原持長は小笠原長宗・諏訪信満軍を迎え撃って、8月24日桔梗ヶ原南端において戦ったが、(府中)小笠原持長・下宮方が敗れ井川城へ逃げ帰った。
しかし、諏訪信満・小笠原長宗方も相当の損害があり、追撃することが出来ず撤退した。この敗戦により南方に脅威を感じるようになった府中小笠原氏は、城ヶ嶽に西條城を築くこととなり、持長の二男宗則を城主として守らせることとした。」とある。
西條城と特定出来る文献は現在発見されていないが、西條城と推定されているものとして、天文6年(1537)2月、諏訪頼満の孫 諏訪頼重を大将とする諏訪勢が塩尻へ押し寄せ、赤木・吉田に放火した。
この内容が『神使御頭之日記』に書かれており、「この年2月2日塩尻へ指し寄せ、赤木・吉田まで放火候、刑部頼重大将初めてに候。同10月13日塩尻の城 刑部頼重責め落とされ候。」とある。
この中に出てくる頼重に攻め落とされた「塩尻の城」が、小笠原一族が抑えていた西條城ではないかとされる。だだ、塩尻町誌では高所にある西條城がそんな簡単に責め落とされるはずはなく、北東にある平城の高須城(桟敷城)ではないか としている。その後は、文献には出てこなくなる。
塩尻周辺は天文17年(1548)に起った塩尻峠の合戦で小笠原氏が武田氏に敗れたことで、西條城は自落もしくは武田氏により攻め落とされたものと推測されている。
なお、西條城主とされる小笠原閑斎は、小笠原氏府中陥落後の天文19年(1550)の野々宮合戦に参戦しているので、西條城は自落したとも考えられている。

構造と感想
西條城は、大芝山から北に伸びる尾根上の標高1199m、比高400mの洞峰(城ヶ岳)に築かれており、眺望はすこぶるよく、塩尻一帯を一望できる。
構造は単郭で頂部に低土塁に囲繞された長円形の主郭を置き、南側と北西側に二重堀切を入れ防御を固めている。虎口が東側と北西側に開く。
南側背後の大芝山への尾根筋には100m強 離れてもう1条堀切が入れられ、その間に二ヵ所小規模な平坦地がある。これも郭か。
主郭から北東に延びる尾根を下ると嵐城、飯縄城へ至る。

道 案 内
長野自動車道の塩尻インターを下りて国道20号の西方向へ入る。最初の信号交差点の桟敷交差点で左折し県道63号線に入る。道なりに700m程南西に行った日ノ出町交差点で左折し国道153号に入る。国道153号を道なりに1.8km程走ると塩尻町交差点に至り、その15m先で右折する。南に510m程進むと中央本線を潜る。そのまま640m程南下すれば慈光院前に至る。この寺の南背後の尾根上に飯縄城がある。
寺の左手に山道があり、少し登ると中央線の線路に出る。線路を渡り、谷間の小沢氏墓地横から東尾根に取付き、尾根筋に出たら右手に登れば飯縄城、そして嵐城を経て、西條城にと至る。

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主郭南背後の堀切      南尾根の平坦地

 
南端の堀切            北西外側の堀切

 
北西側の二重堀切(上下から)

 
主郭からの眺望