干沢城  No20214−05 (ひざわじょう)       

主郭 主郭背後の堀切

城郭の概要                  
別  名 : 樋沢城、安国寺城、霞城
所在地 : 茅野市宮川安国寺
築城年 : 康正年間〜文明年間頃
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、横堀、竪堀、石積み、
訪城日 : 平成30年10月26日

歴   史
築城年代は定かではないが、諏訪氏大祝家によって築かれたと云われる。
康生2年(1456)上社の政祭分離により、惣領家は宮川以東を領し、上原城を本拠として兵馬の権をにぎり、大祝家は宮川以西で前宮に居館を置いて祭事をつかさどった。この頃に大祝家が居館近くの干沢城を砦として整備したと推測されている。
文明15年(1483)正月大祝継満は惣領政満父子と政満弟の原田小太郎らを神殿に招いて酒宴を催し、その席でこれらを殺害、一気に上社の支配権を掌握しようとする挙に出た。これに対し、矢崎、千野、小坂、福島、神長官らの惣領家臣の各氏は反抗に出て、大祝継満を干沢城へ追い込み、継満は父頼満をはじめ一族の多数を討ち取られ、伊那郡高遠の義弟 高遠継宗を頼って逃れた。これによって惣領政満の次男・宮法師丸(碧雲斎頼満)が惣領と大祝を相続した。
この間、再起を図るべく継宗の支援を受けて武居城を修復し、諏訪勢の籠もる干沢城の奪還を試みたが叶わず撤退している。
天文11年(1542)7月 高遠頼継は武田晴信(のちの信玄)や金刺氏と結んで杖突峠を越えて諏訪に攻め入り、安国寺門前町への放火や干沢城を攻撃した。諏訪頼重は本拠地の上原城を支えきれず、桑原城へと逃れ籠城したが、多くの家臣が逃亡してしまったため降伏し、弟の大祝頼高らとともに甲府府中に連行され、東光寺で自刃させられた。これにより諏訪氏惣領家は滅亡、戦後処理で諏訪地方は晴信と頼継が二分して統治するようになった。
しかし、頼継はこれを不服とし同年9月武田氏の兵が駐留する上原城を攻め、武田勢を放逐したが、宮川橋の戦いで武田軍に大敗を喫し高遠へと撤退した。
その後、干沢城は武田方の持ち城となり、武田氏滅亡後に廃城になったと考えらている。

構造と感想
干沢城は、諏訪盆地の南東端、杖突峠から北へ伸びた丘陵の支尾根が諏訪大社前宮本殿の東側に張り出した先端部 標高849m、比80mに築かれた山城である。
後世の耕作や鉄塔設置で不明瞭なところが多いが、主郭から四郭までを一直線上に並べた連郭式の縄張りや各郭間の空堀や段差、それらを取り巻く帯郭がよく確認できる。
南端の頂部に主郭を構え、南西側背後を堀切で遮断し、さらに長林砦を配し防御を固めている。主郭の北端は巾が狭く傾斜し、その下に戦闘石が堆積された小郭があり、二郭との区画となる空堀が東側へ竪堀を長く落としている。二郭は50m×60mと最大の広さで、1〜2mの段差で三区画に分かれ、三郭との区画となる堀切が入っている。三郭は長方形で二番目に広く、北側には4mの段差で四郭が続いている。各郭の東西斜面には大小の郭が重なって取り巻いている。
堀切や空堀は浅く、現況での防御力は大変弱い状況が伺われ、耕作等により大きな影響を受けているように思われ、残念である。

道 案 内
中央道の諏訪インターを下りた諏訪IC交差点を右折し国道20号に入る。南東に1km程行くと高架になり、その手前で左手の側道に入り、290m程先の新井交差点で右折し国道152号に入る。560m程先の高部東交差点を左折し、引き続き国道152号を南東に560m程進むと安国寺西交差点に至る。同交差点を直進し県道16号線に入り、次の安国寺交差点(330m程先)で右折する。右折して直ぐ左手に安國禅寺があり、寺の山門前で左折し細い道に入る。細い道を道なりに180m程進むと頭上に国道152号の高架が走っている。その下に駐車し、奥にある山道が登城路である。

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                  現地の縄張図        登り口

 
主郭の小郭               小郭の戦闘石

 
主郭南東下の堀切               二郭       

 
二郭西下の横堀               二・三郭間の堀切


 
    三郭                三郭北東隅の石垣