朝倉山城  No20214−01 (あさくらやまじょう)       

主郭 東郭から主郭を見る

城郭の概要                  
別  名 : 塩沢城
所在地 : 茅野市北山湯川・米沢塩沢堺
築城年 : 不明
形  式 : 山城 1086.7m 比高157m
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、虎口
訪城日 : 平成30年10月27日

歴   史
朝倉山城は別名塩沢城ともいい、戦国時代の砦・狼煙台で、標高は1,086.7m、比高157mである。山浦地方を一望にでき、小県・佐久・川中島方面への要路である大門峠を見張るに絶好の地である。東方眼下には指呼の間で湯川砦(城)があり、武田氏が狼煙台として使ったという伝承は、この立地条件からも十分納得できる。
天文年間(1532〜55)塩沢安兵衛が武田信玄に従い、信州大門の戦いで戦功があり、朝倉山城を与えられた。その後、子の将監が城主となっている。将監は、武田氏滅亡の後、出家し、朝倉山高照院塩沢寺を開基した。天正5年(1577)に没し、寺裏に自然石の墓石が残されている。
なお、天正18年(1590)諏訪頼忠、頼水父子が徳川家康に従って小田原征伐に従軍する際、朝倉山に木を伐らないように言い残して行ったと伝えられ、城跡の残存状況は良好でる。

構造と感想
朝倉山城は、霧ヶ峰山塊の南東端、米沢塩沢と北山湯川の間に張り出した山稜上に位置し、山容は急傾斜の険しい斜面を持つ、要害地形である。
構造は、南北に細長い山頂部に低土塁が囲繞する円形の主郭を置き、それぞれ堀切を挟み南側には二の郭・三の郭・不動郭を、北側には後郭を一列に配した連郭式で、東の張出しにも烽火台に使われたと思われる東郭を設けている。背後となる主郭と後郭間は、二重堀切とし、外側の堀切は土橋が架けられている。後郭の北側には、食違い竪堀を二ヵ所、これらの間に小さな堀切一条を入れているが、いずれも鋭さに欠け、防御が弱いように思われる。
遺構は、地形上単純であるが、加工度が高く、在地土豪の手によるものでなく、武田氏の改修が入っていると考えられている。
朝倉山城と麓の湯川城がセットになっていて機能していたと考えられている。

道 案 内
(東斜面を登る。)
中央道の諏訪インターを下りた最初の諏訪IC交差点で右折し国道20号に入る。国道20号を南東に1km程行くと跨線橋となるので、手前で左手の側道に入る。側道の280m程先の新井交差点で左折し、国道152号に入る。国道152号を7.9km程道なりに進むと右手に湖東小学校があり、その先の湖東新井交差点で左折する。引き続き国道152号を1.1km程行くと芹ヶ沢交差点に至る。そこで左折し更に国道152号を700m程走ると右手に北山小学校があり、その先350m程で功徳寺前に至る。功徳寺の北側を流れる滝ノ湯川沿いの県道424号線へと左折し、県道424号線を道なりに890m程行くと右手に「朝倉山城跡」の案内板がある。そこから250m程田道を進み突き当りの左手が登り口である。 その付近は道が狭く、手前で駐車した方が無難である。
(西斜面を登る。)
案内板の所から更に県道424号線を1km程進むと左手に廃棄物処理工場があり、その前で山に向かう道に右折する。山裾まで行くと獣除けフエンスがあり、扉を通り抜け、その先のカーブ付近の余白に駐車し、少し行くと右手に「朝倉山城跡」の標識が建てられている。
標識の所から更に奥へと上って行くと、キツイ左カーブの右手の直ぐ上方に尾根筋が見える。そこのカーブミラーの所から直登し尾根筋に出ると東斜面からの道と合流する。

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現地掲載の縄張り図

東郭からの八ヶ岳を望む

東斜面(勘助道)の登り口
 
主郭の土塁             堀切と二郭を見下す

 
主郭・二郭間堀切の竪堀           三郭の北方向

 
主郭・東郭間の堀切       東郭の狼煙炉?

 
   主郭・後郭間の二重堀切         主郭の城址碑