小出城  No20209-10 (こいでじょう)       

西本城北東隅の土塁 東本城・西本城間の二重堀

城郭の概要                  
別  名 : 花田城、城田城、本城
所在地 : 伊那市西春近城
築城年 : 鎌倉時代前期
形  式 : 平山城
遺  構 : 土塁、堀
訪城日 : 平成30年3月18日

歴   史
築城は、鎌倉時代後期に小井弖(こいで)氏によって築かれたと云われる。
工藤氏(後に小井弖氏→小出氏)は、源氏派の有力御家人で『住 信濃国 号林二郎、子孫遂信濃人』の記述があり、早くに信濃国に住み着き、治承4年(1180)源頼朝挙兵の折り甲斐源氏武田信義親子と共に、平家方大田切城を攻め、勝利の勲功により西春近を安堵されたと伝わっている。
工藤氏は、能綱の時、建長3年(1251)嫡子師能と庶子宮熊わういに出した所領譲りの係争や、正応元年(1288)課役係争について鎌倉幕府の裁定を仰いだいわゆる工藤文書が現存している。
師能時、その地名から小井弖と名乗り、新年参賀式接待役の垸飯(おうばん)に出向いた記述が吾妻鑑にみられる。
また、建武2年(1335)に起きた中先代の乱、暦応3年(1340)に起きた大徳王寺城合戦、応永7年(1400)の大塔合戦、永享12年(1440)結城合戦に参戦した記録が残る。
享徳2年(1453)頃、師能系の弾正忠朝能とその兄は、妹が神氏(みわし、後の諏訪氏)に嫁いだ縁で諏訪氏の依頼を受け諏訪に移住したと云われている。
戦国末期に、高遠城家来に6人の所領を得た工藤と名乗る武士がいるが、いずれも小出氏の末流と見られている。
また、尾張の国中村から出て、但馬国出石藩主となった小出甚左衛門秀政やその長子小出吉英(岸和田藩主)・次子吉親(園部藩主)も、ここの小出氏の末流と考えられている。(『現地説明板』より)

構造と感想
小出城は、天竜川に向って東流する戸沢川に北から支流が合流するその上流側の段丘上に築かれている。その中核部は、二重空堀を挟み配置された西本城(55m×40m)と東本城(35m×35m)で形成され、北側の堀を介して中城、西側に堀を介して西城、その北側にトノオカなどの地名が残り、城域は東西約200m、南北約200mに及ぶ。西本城の南側と東側には低土塁も残存している。西城との間の堀は現在道路になっている。西本城の道路に面した切岸に城址碑が設置されている。
城域は耕作地や宅地になっており、城砦らしい雰囲気はやや失われている。

道 案 内
央道の伊那インターを下りて県道87号線の南東方向に入る。そのまま南東方向に2.4km程行くと県道146号との御園交差点に至る。その交差点を右折し南に4.7km程道なりに走り戸沢川を渡って直ぐの戸沢橋バス停の所で右折し細い道に入る。西に420m程行くと西春近北小学校下の三叉路に出る。左手に進み400m程行くと坂道を登り右手に城跡碑が建っている。そこが城跡である。

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現地案内板の図面       


西本城の北西方向       二重空堀の一本


西本城北側の堀      中城の北東方向


西本城西側の堀と城址碑