大熊城  No20206−05 (おおぐまじょう)       

主郭と空堀 主郭の大土塁

城郭の概要                  
別  名 : 千野城
所在地 : 諏訪市湖南大熊
築城年 :
形  式 : 丘城
遺  構 : 土塁、横堀、堀切、竪堀
訪城日 : 平成30年10月26日

歴   史
大熊城は、千野氏の居城と伝えられている。
康正2年(1456)の「芸州・予州大乱」以降、諏訪氏は惣領家と大祝(おおほうり)家による内訌が続き、文明15年(1483)正月大祝継満は惣領政満父子と政満弟の原田小太郎らを神殿に招いて酒宴を催し、その席でこれらを殺害、一気に上社の支配権を掌握しようとする挙に出た。これに対し、矢崎、千野、小坂、福島、神長官らの惣領家臣の各氏は反抗に出て、大祝継満を干沢城(茅野市宮川)へ追い込み、継満は父頼満をはじめ一族の多数を討ち取られ、伊那郡高遠の義弟 高遠継宗を頼って逃れた。また、矢崎らは大祝家に与した下社にも打ち入り、社殿を焼き払い、金刺興春を討ち取った。金刺氏は没落し、下社は衰退した。この際、討ち取られた金刺興春の首は二夜にわたり、大熊城に晒されたと史料に残る。
天文11年(1542年)武田晴信(のちの信玄)と高遠頼継が結んで諏訪へ侵攻した。このとき大熊城には千野入道兄弟が立て籠もっていたが、武田氏に攻められ落城した。その後、千野氏は武田氏に従い、諏訪衆として働き、武田滅亡後は諏訪家再興の中心となり諏訪満隣をたてて諏訪家を復活させる活躍をみせ、江戸時代には諏訪高島藩の家老として存続した。

構造と感想
諏訪大社上社本宮より北西へ1.4q程の所に位置し、守屋山から諏訪湖に向けて伸びる尾根先端部の標高810m、比高40mに築かれている。
構造は、三日月状に伸びた尾根筋を堀切で遮断し、堀切から北へ連郭式に六郭、五郭、四郭、そして頂部の主郭、二郭、三郭と配置している。さらに、四郭から三郭の東側斜面には腰郭が付帯している。主郭は南側から西側を空堀が廻り、南側と西側の南部に土塁も築かれている。南東の外には桝形が設けられている。
なお、五郭の全部と六郭の半分程が中央道の貫通により消失しているが、他の部分は良く旧状を留めており、特に主郭の土塁と主郭を取り巻く空堀などの遺構は見応えがあり、また、諏訪盆地全体を見渡せる眺望は絶景である。

道 案 内
中央道の諏訪インターを下りた諏訪IC交差点で左折し国道20号に入る。国道を670m程北に行くと最初の信号交差点の飯島交差点に至り、そこで左折して県道183号線に入る。県道を1.6km程南下した諏訪市博物館前の神宮寺交差点で右折し、県道16号線に入る。県道を1.9km程西進すると北大熊バス停手前の湖南小学校入口交差点に至り、そこで左折する。山に向かって270m程行くと北方御社宮司社と云う神社前に出る。そこで道がY字に分岐するので左手に進み神社前を通り道なりに450m程進むと中央道を渡る橋に至る。橋の右手両側側が城跡で、道路脇や橋梁に駐車できる。主郭入口に標柱と説明板が建てられている。

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主郭と二郭間の空堀           桝形

 
桝形下方の竪堀       背後の堀切跡

 
二郭の西方向      諏訪湖方面への眺望