南真志野城  No20206−04 (みなみまじのじょう)       

主郭 主郭切岸の石積

城郭の概要                  
別  名 : 真志野城
所在地 : 諏訪市湖南南真志野
築城年 : 文明15年(1483)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、櫓台、石積
訪城日 : 平成30年10月26日

歴   史
文明15年(1483)の諏訪氏内訌の時、真志野集落の軍事的役割が増大する。諏訪惣領家方はここに有力武将である矢嶋氏を配し、南真志野城を築城したと考えられている。野明沢の谷に通る道は真志野南峠を経て後山集落を通り箕輪町に通じており、高遠勢(大祝諏訪継満勢)が築いた荒城に対する付け城的役割もあったと思われるとある。〔『諏訪市史』〕
真志野城主に関する史料の初見は、『守矢頼真書留』で、天文11年(1542)7月の条に「桑□(原か)より真志野の城へ矢嶋殿同心宮にまわり・・・」とある。
天文11年7月は、甲斐の武田晴信(のちの信玄)が高遠頼継らと組んで諏訪へ侵攻した時で、矢嶋殿とは諏訪上社禰宜の矢嶋満清を指し、満清が諏訪惣領家の諏訪頼重が最後に立て籠もった桑原城から宮(頼重と対立していた大社神長官の守矢頼真)の側へ寝返り、南真志野城に入ったことを示していると推測されている。なお、この戦いで諏訪惣領家が滅ぶと、諏訪郡は宮川を境に西半を頼継が、東半を晴信が領有することとなった。
同年9月頼継が諏訪郡全域の領有を図って晴信と争った際に満清は頼継側について敗れ、禰宜職を免じられ、諏訪郡は武田氏の支配下となった。
天文17年(1548)7月 矢嶋氏をはじめとする西方衆は小笠原長時に呼応して、晴信に叛旗を翻したが敗れ、ことごとく放火されており、この時に南真志野城も廃城になったと思われている。

構造と感想
諏訪盆地の南縁の南真志野集落に向け北東に伸びてきた尾根先端部の標高1,030m、比高220mのピークに築かれている。
頂部に三段築成の主郭を配し、北西側に土塁を付帯させ、その外側に幅広い堀切を入れ遮断している。堀切外の尾根筋には、100m程にわたり細長い土橋状の鞍郭があり、その先で山に続いている。
主郭は北西隅に上段、その南東側の南が中段、北が下段になっている。また、主郭や堀切の土塁に石積が見られる。主郭の北下に二郭があり、その下に帯状の二段の段郭が設けられている。主郭下段から東に下る尾根筋にはU字形の三郭、その下に四郭が築かれ、さらに下方に段郭が連続し、下方の段郭は帯状を呈している。主郭中段から南西への張り出しにも二、三段の段郭が設けられている。
背後の平坦な尾根や南斜面が緩やかな割りに防御がやや弱いいように思われるが、普請は丁寧で郭内の削平もしっかりなされており、残存状態も良好な城跡である。
ただ、訪城には、最後の写真にあるように害獣駆除の罠が仕掛けられている所があり、登る場所に注意が必要である。

道 案 内
中央道の諏訪インターを下りた諏訪IC交差点で左折し国道20号に入る。国道を670m程北に行った最初の信号交差点の飯島交差点に至り、そこで左折し県道183号線に入る。県道を1.6km南下した諏訪市博物館前の神宮寺交差点で右折し、県道16号線に入る。県道を2.2km程西進すると左手に3階建の大きな建物があり、横断歩道ががある。そこで左折し川沿いを650m程山に向かって走ると中央道の跨道橋を渡る。渡り終えて左折し390m程道なりに進むと短い橋の所に至る。橋の手前でUターンするように未舗装林道に入る。980m程道なりに上って行くと右にカーブし、その右手の斜面が緩やかな斜面となる。そこで尾根筋に向け登った右手が城跡である。路駐可(林道がやや広くなっている。)

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主郭の上段と櫓台        中段の土塁

 
二郭と背後の堀切       南西張り出しの段郭

 
背後の堀切      堀切土塁の石積


罠にかかったシカ