桑原城  No20206−02 (くわばらじょう)       

主郭東方向 主郭と二郭間の空堀

城郭の概要                  
別  名 : 高鳥屋城、水晶城、矢竹城
所在地 : 諏訪市四賀桑原
築城年 : 不明
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀、水の手、首塚、
訪城日 : 平成30年10月28日

歴   史
築城年代は定かではないが、桑原氏によって築かれたと云われる。
保元元年(1156)の保元の乱に源義朝に従っていった上社大祝(おおほうり)一族の諏訪五平と共に桑原安藤二、同安藤三の名が伝わっている。
文明15年(1483)に諏訪下社 金刺興春が高島へ攻め寄せた際、桑原氏や矢島氏らが桑原城から出陣して興春を討ち取ったと伝わっている。その後の桑原氏の動向については不明のようである。
天文11年(1542年)武田晴信(のちの信玄)が諏訪に攻め入り、諏訪頼重を本拠地の上原城に攻めると、頼重は上原城を支えきれず、桑原城へと逃れ籠城したが、多くの家臣が逃亡してしまったため、降伏し、弟の大祝 頼高らとともに甲府府中に連行され、東光寺で自刃させられた。これにより諏訪氏惣領家は滅亡したが、天正10年(1582)織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏が滅び、同年6月には本能寺の変で織田信長も斃れると、諏訪氏の旧臣千野氏らに擁立されて従兄の諏訪頼忠が織田家臣の河尻秀隆の郡代・弓削重蔵を駆逐し、諏訪氏の旧領を回復して惣領家を継いだ。そして、金子城(諏訪市中洲)を築き拠点とした。

構造と感想
諏訪市四賀桑原と四賀普門寺の間の北東背後に張り出してきた尾根の先端の頂部に築かれた山城である。南々東2km弱の所に諏訪氏の本城である上原城があり、標高も比高も概ね同じ位で、主郭からお互いを見通せる近さである。また、眼下に諏訪湖を一望でき、見通しがきく好立地である。
桑原城の背後となる北東側尾根続きは、直ぐに大きく落ち込む鞍部で、斜面の中程に堀切を入れ遮断し、その上方に二段の段郭を設けている。上段が東郭で北端に首塚(古墳or土塁?)がある。さらに上方の頂部に土塁を廻らした主郭を構え、空堀を挟み西側に二郭を連郭式に設けている。二郭の中程には浅い空堀痕があり、二区画に分かれていたようでる。また、二郭には「コ」の字状に取り巻く腰郭が付帯している。
頂部の主郭と二郭の南側斜面と南西支尾根には、段状に郭が幾段も設けられている。支尾根筋は桑原口と呼ばれ、大手道と考えられている。
諏訪氏頭領の頼重が頼った城郭にしては、中心部で150m程の小規模な山城であり、長期の籠城に耐え得るような城郭ではない。

道 案 内
中央自動車道の諏訪インターを下りた諏訪IC交差点を直進し、800m程進むと国道20号との交差点の四賀南神戸交差点に至る。同交差点を左折し1.3km程北西に進むと諏訪中央自動車学校の南隅の四賀交差点に至る。その交差点を右折して県道424号線に入る。県道を道なりに1km程行くと右手に「桑原城跡登り口」の案内板があり、そこで右折してダートの道に入る。ダートの道を登り切った所に広場がある。ここから山道を登り、尾根筋に出たら右手方向が城跡である。

TOPへ 戻る

 
                二郭より主郭を見る
 
東郭北方向                     東郭の首塚

 
主郭の東側土塁                二郭東方向

 
背後の堀切            水の手


二郭からの眺望