松本城  No20202−10 (まつもとじょう)       

天守 黒門桝形虎口

城郭の概要                  
別  名 : 深志城、黒烏城
所在地 : 松本市丸ノ内
築城年 : 永正元年(1504)
形  式 : 平城
遺  構 : 現存天守(国宝)、堀、石垣、土塁、復元門、櫓 
訪城日 : 平成24年10月19日

歴   史
戦国時代の永正元年(1504)に守護小笠原氏の一族島立貞永が、小笠原氏の本拠地林城の前面を固める支城の一つとして、城館としてあった「深志城」を平城に改修したのが始まりと云われる。
しかし、天文19年(1550)甲斐の武田晴信が信濃府中(松本)に侵攻し、「イヌイノ城(埴原城)」を攻略すると、林城をはじめ5城が相次いで自落した。この際、守護 小笠原長時は居城 林城を捨てて平瀬城へと撤退し、後に長時は村上氏を頼って葛尾城へと逃れた(『高白斎記』)。
晴信は、府中を制圧すると深志城代に馬場信春を配し、信濃支配の拠点として改修を行い、信濃小県郡の村上義清、越後国の長尾景虎(のちの上杉謙信)と抗争し、北信濃に至る信濃一帯を領国化した。
しかし、 天正10年(1582)2月 織田信長の侵攻を受けて武田氏は滅亡し、深志城は木曾義昌に与えられたが、同年6月 明智光秀の謀反により京都本能寺において信長が横死すると、越後の謙信が義昌を追い払い、長時の弟である貞種を城主に据えた。だが、長時の嫡男・貞慶が徳川家康の後押しを受け府中に侵攻し、貞種を越後へ追い落として旧領を回復すると、城名を深志城から松本城へと改称した。
天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼすと、家康は関東へ移封となり、貞慶の子・秀政も同道して下総古川へ移り、代わって松本城には旧徳川氏の譜代・石川数正が入封した。数正とその子・康長により本格的な城郭普請がなされ天守ほか本丸御殿・二の丸・三の丸が完成した。
慶長18年(1613)康長は「大久保長安事件」に連座して改易となり、小笠原秀政が城主に返り咲いた。元和3年(1617)秀政の跡を継いだ忠真が播磨国明石に移ると、松平(戸田)康長が入封し、その後、寛永10年(1633)には家康の孫の松平直政が入り、翌年に辰巳附櫓と月見櫓等を整備した。寛永15年(1638)に堀田正盛が、寛永19年(1642)水野忠清が入城し、この水野氏時代に今日の松本市の基礎となった13町8小路の城下町が成立している。享保11年(1726)松平(戸田)光慈が6万石で入部し、9代続き明治を迎えている。

構造と感想
松本城は、松本平の中央部に築かれた平城で、南300mに女鳥羽川、西に奈良井川が流下し、さらに城の四周に惣堀・外堀・内堀を廻らした堅固な構造をしている。
北西寄りに150m四方の本丸が置かれ、その西側中央に無骨な面と優雅な趣を併せ持つ連結複合式の天守が聳えている。五層六階の大天守と三層四階の乾小天守を二階建て渡櫓でつないだ連結式の天守が石川氏時代に建てられ、その大天守南東隅に松平直政により辰巳附櫓と月見櫓が増設され、これらの天守群が現存し、国宝に指定されている。
この天守群は、毎年一回 四百万円余の費用をかけて下見板の黒漆を塗り替えており、黒く輝く雄姿が際立っている。
本丸の東・南・西側を内堀を隔て「コ」の字形の二の丸が取り囲み、さらに本丸と二の丸を三の丸が取り囲んでいたが、三の丸は消失しており、東側の総堀の一部が残存するのみである。
本丸の虎口は、南東隅の黒門桝形と西北隅の埋門が開いており、平成2年までに黒門桝形虎口が、二の丸の虎口は三ヵ所で開いていたが、その内の東側の太鼓門桝形虎口が平成11年に完全復元され、近世城郭らしい往時の姿が蘇りつつある。

道 案 内
黒漆を塗る作業風景
長野自動車道の松本ICを下りた松本インター交差点で左折し国道158号に入る。国道158号を東に2.1km程行くとJR大糸線を潜り、80m先の中央1丁目交差点で左折する。北に750m程行った蟻ケ崎高校交差点で右折し、200m程東進した右手が城跡である。左手に市営駐車場がある。

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案内図              

 
埋橋と天守       本丸内より見る天守

 
黒門             太鼓門

 
天守望楼      天守望楼の天井

 
月見櫓内      北側の中堀