早落城  No20202−07 (はやおちじょう)       

主郭 主郭南側の堀切

城郭の概要                  
別  名 : 洞城、洞山砦
所在地 : 松本市浅間温泉洞
築城年 : 南北朝時代
形  式 : 山城
遺  構 : 堀切、竪堀、土橋、竪土塁、
訪城日 : 平成24年10月19日

歴   史
中世、稲倉城の支城、赤沢氏の持城で洞城と云ったが、主君の小笠原長時が城を召し上げて岡田郷の井深城主 後庁氏に与えた。
天文19年(1550)武田氏が小笠原氏の居城 林城を攻略した際、赤沢氏は洞城をいち早く攻め落としたので、早落城と呼ばれるようになった。赤沢氏は武田氏に降り、家臣の林氏に城を守らせていたが、天正10年(1582)に廃城となった。
赤沢氏は、小笠原長経の二男・清経が鎌倉時代のはじめ頃に伊豆国田方郡赤沢郷の地頭となり、赤沢氏を称したことに始まる。建武2年(1335)小笠原氏と共に四宮左衛門尉を討つため松本に進出し、四宮氏を滅ぼしたのち、信濃国筑摩郡浅間郷を賜り、今の本郷小学校辺りに館(赤沢氏館)を構え居住したと云う。その後、戦国時代になって稲倉へ移ったようである。
天文19年(1550)武田晴信が松本平に侵攻して小笠原氏を攻めると、赤沢左衛門尉は武田氏に降り、小笠原氏の家臣の籠もる伊深城を攻め落としたとも云われる。その後、武田家臣団に組み込まれていたが、天正10年(1582)武田氏が滅亡し、徳川家康の支援で小笠原貞慶が府中に復帰すると、左衛門尉の子式部少輔清経は貞慶の支配下に入った。
しかし、翌天正11年(1583)に清経は塔ノ原城主海野三河守、小岩岳城主古厩因幡守とともに上杉氏に通じ、貞慶に謀反を企て、それが発覚し切腹を命じられ、赤沢氏は滅亡した。

構造と感想
松本平の北東部、女鳥羽川東岸の標高778m、比高75mの独立山稜に築かれた山城である。
南北に細長い稜線に細長い郭を直線に配置し、その間を堀切で区画した単純な連郭式の造りである。
南の最頂部に55m×11mの主郭を置き、北へ23m×5mの二の郭、50m×7mの三の郭と連ね、また、ニ・三の郭間に堀切で区画された階段状の小郭を設けている。大手筋とされる急な北斜面には4段の段郭を設け、北端から北東に竪堀を落としている。搦手は緩やかな南稜線で、主郭南側の堀切を隔て半円状の郭があり、西下に腰郭が付帯し、南端を小堀切で仕切っている。その南90m程の所で竪土塁が東へ下っている。しかし、南以外の要害性に比べ南側の防御能力が相当劣っている。

道 案 内
松本市街から国道143号を北上し美須々交差点で右折して県道282号線に入る。770m程北東に行くと浅間橋交差点に至り、そこで左折し国道284号へ入る。北に2.4km程行くと洞バス停があり、そこのT字路で右折し、150m程進み右手の女鳥羽川に架かる橋を渡って直ぐ右手に住吉神社がある。川に面した神社への階段を登ると直ぐ右手に早落城の石碑と説明板が建っており、登り口である。訪城者用駐車場橋あり。
なお、南側からも登れるようである。

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北端の段郭        登り口