稲倉城  No20202−03 (いなぐらじょう)       

主郭の北方向 本郭群背後の二重堀切

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 松本市大字稲倉字稲倉
築城年 : 戦国時代初期
形  式 : 山城
遺  構 : 堀切、竪堀、竪土塁、
訪城日 : 平成24年10月20日

歴   史
稲倉城の築城時期は定かでないが、戦国時代初期の頃に赤沢氏によって築かれたと云われる。
赤沢氏は、小笠原長経の二男・清経が鎌倉時代のはじめ頃に伊豆国田方郡赤沢郷の地頭となり、赤沢氏を称したことに始まる。建武2年(1335)小笠原氏と共に四宮左衛門尉を討つため松本に進出し、四宮氏を滅ぼしたのち、信濃国筑摩郡浅間郷を賜り、今の本郷小学校辺りに館(赤沢氏館)を構え居住したと云う。その後、戦国時代になって稲倉へ移ったようである。
天文19年(1550)武田晴信が松本平に侵攻して小笠原氏を攻めると、赤沢左衛門尉は武田氏に降り、小笠原氏の家臣の籠もる伊深城を攻め落としたとも云われる。その後、武田家臣団に組み込まれていたが、天正10年(1582)武田氏が滅亡し、徳川家康の支援で小笠原貞慶が府中に復帰すると、左衛門尉の子式部少輔清経は貞慶の支配下に入った。
しかし、翌天正11年(1583)に清経は塔ノ原城主海野三河守、小岩岳城主古厩因幡守とともに上杉氏に通じ、貞慶に謀反を企て、それが発覚し切腹を命じられ、赤沢氏は滅亡した。その際に稲倉城も廃城となった。

構造と感想
稲倉城は、松本平の北東部に位置し、女鳥羽川の右岸へ南西方向に張り出してきた尾根の標高1,000m、比高230mの所に築かれた山城である。
構造は、堀切で区画された三つの郭群からなり、北から南西へ連郭式に本郭群、二の郭群、三の郭群が連なっている。
主郭群の北側の尾根続きを二重堀切で遮断し、堀切南側の最高所に物見台を構え、階段状に3段の小郭を経て、その下に小段差で四つに分かれた30m四方の主郭が置かれている。主郭の南側に大堀切を隔て二の郭群が続き、小堀切で南北二ブロックに分かれている。北ブロックはピークの三角形の郭とその北・西・南側を取り巻く腰郭を中心に、東面は断崖、西斜面は8段程の帯郭が設けられ、帯郭と大堀切の間に竪土塁を築いている。南ブロックはピークに小郭があり、その西側に2段の腰郭が付いている。
二の郭群の南側は各々13m程の切岸を持つ2段の大堀切を経て、大手を守る三の郭群となり、物見台を除き最も高い郭群である。堀切南側のピークに13m×5mの郭を設け、前面となる南側に3条の小堀切を入れ、両サイドは急崖である。
岩場を穿って造られた堀切は圧巻で、その見事さに感動した。また、二の郭からの眺望も優れ、十分に楽しめる城跡だった。

道 案 内
松本市街から国道143号を北上し六助池交差点で右折する。400m程東進した矢作交差点を右折し国道254号に入り、東に2.4km程行った稲倉バス停を越えた所で鋭角に左折する。集落内を490m程西進すると左道路脇に稲倉城への小さな案内板が建っている。そこで右折し林道に入り、150m程先で右にカーブし、そこから道なりに1km程上って行くと右手に稲倉城の案内板が建てられている。ここが登り口で駐車場もある。

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林道入口の案内板       登り口の案内板


案内板の鳥瞰図

 
二の郭群の北ブロック        二の郭群の竪土塁

 
三の郭群北側の堀切を見下す      三の郭群の北方向