若槻里城  No20201−03 (わかつきさとじょう)       


城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 長野市大字若槻団地三番地
築城年 : 鎌倉時代初期
形  式 : 居館
遺  構 :
訪城日 : 平成26年10月27日

歴   史
若槻里城は、鎌倉時代初期(12世紀後半)に背後の詰城である若槻山城と共に若槻頼隆によって築かれたと伝えられる。頼隆は、八幡太郎源義家の孫にあたり、清和源氏の直系で、従五位下の位階をもち伊豆守を称し、鎌倉御家人として相模国毛利庄から若槻庄の地頭職となり入部して、若槻氏を称した。頼隆の子、頼胤(兄)はこの里城を居館とし、子孫は押田氏(押田)、多胡氏(田子)に分流し、頼定(弟)は真光寺に居館を構え、子孫は西条氏と称した。
室町時代には高梨氏に隷属し、若槻庄もその知行地となっていた。応永11年(1404)信濃守護代細川慈忠の入信に反対して若槻氏は高梨氏と共に抵抗したが、若槻山城は幕府方の市川氏幸らに攻められ陥落した。
嘉吉9年(1441)若槻氏は常陸国の結城合戦で再起し、幕府軍の五番陣の旗頭として高梨・須田・井上の諸氏と共に、関東まで出陣している。
戦国時代に入ると善光寺平が武田信玄・上杉謙信の抗争の場となり、永禄年間(1558〜69)武田氏に攻められ、若槻氏は越後に逃れたと云われる。

構造と感想
若槻里城跡は若槻団地内に位置する居館跡で、城域は東西120m、南北180mで、2.3haの面積を持っていた。往時は、主郭とその西側の二の郭からなり、その周囲に幅広い濠を廻らした平地城館の典型的な構造をしていた。
現在は昭和40年からの宅地開発によって遺構の殆んどが失われ、二の郭北側の濠の一部が若槻里城公園として残っているだけである。
なお、居館と詰の山城が一対になたものは善光寺平ではここだけのようである。

道 案 内
上信越自動車道の須坂長野東インターで下り最初の須坂長野東IC入口交差点を左折し西に向かう。西に4.3km程行った南長池交差点で右折し北に向かう。北に1.6km程行くと右手に長野運動公園がある。運動公園を通り過ぎ820m程北上すると長電長野線のガードがあり、その手前の信号交差点を左折する。西に820m程行くと県道373号線の吉田小学校交差点に出る。右折して県道に入り、西に520m程行くと長野吉田高校東交差点に至り、そこで右折し北に向かう。970m程北上し県道60号線に入る信号交差点で左折し、西に430m程行き自治会館前交差点で右折する。団地内を410m程北上したT字路で左折し、310m程西進する。右折し北に向け入ると50m程先の右手が若槻里城公園である。

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