武田信義館  No19207−02 (たけだのぶよしやかた)       

願成寺に残る信義の五輪塔

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 韮崎市神山町武田
築城年 : 平安時代末期
形  式 : 居館
遺  構 : なし
訪城日 : 平成22年11月20日

歴   史
甲斐源氏の祖となる新羅三郎義光の第三子義清が市河荘司として甲斐に土着した。義清の子義光が八ヶ岳山麓の大八幡・熱那・多摩の三荘を掌握し、逸見一帯を甲斐源氏の本拠とした。その二男太郎信義は武田の荘(韮崎市神山町武田)を分知され、初めて武田を名乗り、武田の氏祖となる。義信が武田の荘に構えた居館が武田信義館である。
治承4年(1180)平家打倒のため挙兵した源頼朝の要請に応じ、甲斐源氏の諸氏を率いて信濃・駿河を転戦し、武功を立てて駿河守護に任じられたが、勢力を増大した甲斐武田氏に危機感を覚えた源頼朝に疎んじられ、信義は一線を退き、文治2年(1186)失意のうちに59歳で世を去った。

構造と感想
武田信義館は、武田集落の東端にあり、東は釜無川の河岸崖、南に甘利沢、北に竪沢が形成した谷崖が、そして西を山地に囲まれた地に築かれていた。現在は、東畑と呼ばれる水田の一角に居館の標柱と案内板が立てられている。そこへ入る道路脇に墓石や石塔が並んでいる辺りに土塁が残存していたが、現在は焼失している。
なお、願成寺に信義の墓がある。

道 案 内
中央自動車道の韮崎インタを下りて、左折し県道27号線に入る。県道を道なりに2km程西進すると七里岩トンネルに入り、トンネルを出て150m先の一ツ谷交差点で左折する。左折後、南東に800m程行くと武田橋北詰交差点があり右折する。橋を渡った武田橋西詰交差点で右折し300m程行くと左手に韮崎西中学校があり、中学校の北西角で左折する。西に420m程行ったT字路で右折し、北西に180m程行き五差路の複雑な交差点を直進し、道なりに250m程進むと坂を上り切った左手に墓石や石塔が並んでいる。左手奥の畑の小区画が武田信義館跡である。

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                         東側の河岸崖