小松城  No17203−01 (こまつじょう)       

天守台 本丸西面の石垣

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 小松市丸の内町
築城年 : 天正4年(1576)頃
形  式 : 平城
遺  構 : 天守台、石垣、移築門
訪城日 : 平成22年6月26日

歴   史

小松城は、天正4年(1576)頃に一向一揆方の若林長門が築城したと云われる。
天正7年(1579)柴田勝家が攻め落とし、天正8年(1580)村上頼勝が城主となった。慶長3年(1598)村上氏の移封により、丹羽長重が能美郡を加増され入城したが、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで西軍に属したため、前田利長の攻撃を受け浅井畷で合戦となったが敗退、戦後に長重は改易になり、小松城は前田氏の有するところとななって城代が置かれた。
元和元年(1615)一国一城令により一旦は廃城となったが、寛永16年(1639)金沢城主前田利常が隠居し、その隠居城とするため翌年にかけて本丸御殿を建て、本丸の東に二の丸、その南に三の丸、本丸の南に葭島、西に中土居、北に琵琶島などを増設、新たに石垣を組むなど大改修がなされた。本丸の南西部には天守台も築かれ、二重二階の天守が建てられた。利常は寛永17年(1640)に小松城に入城している。
万治元年(1658)利常が没した後は、二の丸、三の丸の建物が取り壊され、再び城代が在城したが、延宝7年(1679)以降は2名の城番が在城し明治を迎えている。


構造と感想
小松城は、前川と梯川の合流点の西方にあって、梯川の蛇行によってつくられた沼地を利用した平城で、川の水を引き入れた堀の中に8つの島が本丸を囲繞するように配された。城の面積は、金沢城の倍近い約56万uにおよぶ広大なもので、城域の約3割を堀が占め、その様は「小松の浮城」とも呼ばれた類い希な景観をしていたとされる。
ところが、現在では堀が完全に埋められ、旧城域には高校や市役所、公園などの公共施設、そして住宅などが建ち並び、昔日の面影は殆んど失われている。その中で名残を留めるのは、小松高校の西端に天守台と堀の石垣が一部ぽつんと残るのみである。また、建物で常磐門が稚松小学校に、二の丸鰻橋門が市内の来正寺長屋門として移築され残っている。なお、小松高校の南にある芦城公園が三の丸跡である。

道 案 内
北陸高速道の小松インターを降りて右折し県道25号線に入り、1.6km程南下した城南町西交差点で左折する。国道360号に入り東に1.8km程行き京町交差点で左折し県道101号線に入る。そこから250m程北方の京町北交差点で左折、西に160m程行き小松市役所前で右折する。北に290m程行くと小松高校に突き当り、そこで左折して西に65m程進む。そこで右折し北に110m程行くと突き当りになり左折する。西に50m程行きT字路を右折し、北に50m程行き突き当たりで左折して高校のグランド沿いを西に150m程行くと右手に天守台がある。

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   本丸跡          天守台と堀の石垣